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静岡県静岡市

久能山城

2014年12月21日

久能山頂からは駿河湾一帯を一望でき、遠く伊豆西海岸をも望むことのできる景勝地である。永禄11(1568)年12月、駿河の国主今川氏真を破り、その領国を占領した甲斐の武田信玄は、いち早く久能山の地に着目、山頂にあった補陀落山久能寺を有渡郡北矢部(清水市)に移し、その跡地を城郭に改造、駿河湾一帯を押さえる要地として、伊豆に本拠地を置く北条水軍の監視にあたった。
また武田信玄は水軍を編成し、久能山の東北5kmの清水市美濃輪町に武田水軍の根拠地袋城を築城して、西方10kmの持舟城を修築し、これにも水軍を備えて置いた。
このように久能山城は、武田氏が駿河湾の海上権を握るための要であり、袋城と持舟城を両翼とするものであった。
しかし武田氏による久能山城の築城年月は明らかではなく、永禄13(元亀元、1570)年頃の記事として、「甲陽軍鑑」品第36に「江尻御普請、清水にも屋敷構の袋城」など駿河周辺における武田氏の新城の普請状況が述べられているから、久能山築城もこの頃と推定される。
久能山城の普請状況については、山上に久能寺の寺坊が設けられているところから、それらに簡単な補修を加えて使用したものと考えられる。
武田信玄は久能山城に今福浄閑斎・同丹波守父子を置いて守備を命じた。天正元(1573)年、今福丹波守は遠州諏訪原城城番を命ぜられたが、同3年、徳川軍に敗れると再び久能山城に在駐するようになった。
そして同6年以降次第に西から徳川家康の侵攻を受け周辺の諸城が陥落し、同10年2月27日、徳川軍に包囲され孤立する久能山城城番今福丹波守は、数日の籠城の末、徳川氏に城を明け渡し、甲州に去ってしまった。
長年に渡り徳川家康を脅かした甲斐の雄武田勝頼は天正10年3月に滅亡した。翌11年正月からは松平源三郎勝俊が在番、ついで同18年に徳川家康が関東へ転封の後、駿府城に封ぜられた中村一氏の臣松下吉綱が在番となった。
関ヶ原の戦いを経て慶長11(1606)年12月から、徳川家の臣榊原清政、照久父子が在城するが、元和2年4月17日、徳川家康死去後その遺言に従い、久能山城を廃止して同山山頂の愛宕曲輪に葬り、旧城内に東照宮が創建されることになった。
(日本城郭大系より)

勘介井戸

石垣

久能山城からの駿河湾


一の門

元和3年の建立といわれ当初は櫓門であったが明治17年9月に暴風で倒壊し後に平門に改め現在に至っている。古くは久能山の総門であった。
(看板資料より)


門衛所

江戸時代久能山の門を守る与力がいた番所で、ここで登拝者を制限した。今回老朽化のため復元解体修理を施し保存したもので、この種の建物は全国でも少なく貴重なものである。
(看板資料より)


楼門

拝殿

拝殿

拝殿

 



2001年10月08日

久能山には16時30近くになって到着。麓の案内板にはニの門が閉まるのが16時と書いてあり既に時間オーバー。ちょうど階段を下りてきたおっちゃん連中に聞いてみましたが二の門がどれなのかは不明でしたが、とりあえず千段の階段を登ることにしました。
一の門は無事開いていたので更に進み、勘介井戸を通過して東照宮の入口で聞いたら、もう少し先まで入っても良いとのことだったので更に進みましたが、一番奥の神廟を見ることはできませんでした。
一の門から望む駿河湾は絶景でした。勘介井戸では100円払ってのぞいてみましたが井戸の内部がちゃんと明るく照らされて中の様子を確認することができました。


永禄11年12月武田信玄は当山が要害の地であることを知って寺院を清水北矢部に移し城砦を築いて久能山城と称した。天正10年武田氏が滅亡したので徳川の有となった。山上の勘介井戸、愛宕の曲輪等は当時を物語るものである。
徳川家康公は生前、久能山城を駿府要害の地なりとして重要視し且つ風光を愛さられた。元和2年4月17日家康公が駿府城に没するとき遺言により、この地に葬られ2代将軍秀忠公は壮麗な権現造りの社殿を造営された。これが現在の東照宮で13棟が重要文化財に指定されている。
(看板資料より)


勘介井戸

この井戸は、戦国時代に山本勘介が掘ったといわれ今から約400年前の久能山城を語る貴重な文化財である。深さ33m石垣積で今回蓋を作り保存につとめると共に照明装置を施し、内部がよく見られるようにした。
(看板資料より)


門衛所

江戸時代久能山の門を守る与力がいた番所で、ここで登拝者を制限した。今回老朽化のため復元解体修理を施し保存したもので、この種の建物は全国でも少なく貴重なものである。
(看板資料より)


一の門

元和3年の建立といわれ当初は櫓門であったが明治17年9月に暴風で倒壊し後に平門に改め現在に至っている。古くは久能山の総門であった。
(看板資料より)


階段を登る前は千段という段数に登ることを躊躇してしまいましたが登ってみたらそんなにたいしたことはありませんでした。皆さんもロープウェイではなく階段を登りましょう。
その後慎之介殿と分かれて清水インターから東名高速に乗って帰ってきましたが途中で飲んだカフェイン入りのドリンク剤のおかげで居眠り運転をすることなく20時前には帰ってくることができました。

 

 
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