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神奈川県相模原市

津久井城


2004年02月15日

三増峠の合戦の際に信玄が小幡尾張の軍勢で津久井城を抑え、その後の合戦を有利に展開したのだそうです。津久井湖畔の「県立津久井湖城山公園花の苑地」に車を止めてすぐ近くの登山道入口から登り始めました。30分弱で飯縄曲輪(飯縄神社)に到着し、そこから本城までも10分くらいで到着しました。帰路は小網口方面に下り、車で根本口方面に行ってみましたが公園工事中で御屋敷跡をみることはできませんでした。道は概ね整っていましたが一部険しいところもあるので運動靴で行くことをお勧めします。

 


 

津久井城の位置
津久井城は地理的には、北方に武蔵国、西方に甲斐国に接する相模国西北部に位置しています。そして八王子から厚木、伊勢原、古代東海道を結ぶ八王子道と、江戸方面から多摩丘陵を通り、津久井地域を東西に横断し甲州街道に達する津久井往還に近く、古来重要な水運のルートであった相模川が眼前に流れていることなどから、交通の要衝の地でもありました。また津久井地域はその豊かな山林資源から経済的に重要な地域としても認識されていました。このように津久井地域は中世の早い時期から政治、経済、軍事上の要衝であり、利害の対立する勢力のせめぎ合いの場でもありました。

いつごろ、誰がつくったのか?
津久井城の築城は、鎌倉時代三浦半島一帯に勢力を誇っていた三浦氏の一族、津久井氏によると伝えられています。戦国時代、小田原城を本城とした北条氏は16世紀中ごろまでには相模、武蔵を領国とする戦国大名に発展しました。そしてこの広大な領国を経営し、敵勢力から守るため本城の下に支城を設け、支城領を単位とする支配体制を作りました。当寺の津久井地域は甲斐国境に近く、領国経営上重視されており、津久井城(城主内藤氏)は有力支城のひとつとして重要な役割を果たしていました。現在残っている遺構は16世紀に北条氏が整備したものです。

津久井城が滅びたのは?
天正18(1590)年、豊臣秀吉の小田原攻めの際、北条方の関東の諸城も前後して落城しました。津久井城は徳川勢の本多忠勝、平岩親吉ら12,000人の軍勢に攻められ、6月25日に開城しました。城の南に広がる金原地区には、前陣馬、奥陣馬、勝どき畑、首塚など、戦に関連すると考えられる地名が残されています。

根小屋式山城の遺構
城には置かれている地勢によって、山城、丘城、平山城、平城がありますが、独立した山に築かれたものが山城です。通常、山城は平地の面積が狭いために城主の館や家臣の屋敷などを山麓に置きました。これが根小屋であり、山麓に根小屋を備えた山城のことを根小屋式山城といいます。津久井城は、戦国時代の根小屋式山城の様子を伝える貴重な遺構がそのまま残っています。

山城部分の遺構
標高375mの山頂、西峰の本城曲輪、太鼓曲輪、飯縄神社のある東峰の飯縄曲輪を中心に、各尾根に小曲輪が階段状に配置されています。これらの曲輪には土塁や一部石積みの痕跡も残っています。また山頂尾根には敵の動きを防ぐため、3ヶ所に大堀切が、山腹には沢部分を掘削、拡張した長大な竪堀が掘られています。飯縄神社の東下にある宝ヶ池と呼ばれる溜井は今でも水を湛えています。

根小屋部分の遺構
根小屋は、根本・城坂、小網、荒久、馬込地区一帯に広がっていたと推定され、各地区で大小の曲輪が確認できます。特に城坂地区にはお屋敷跡、馬場、左近馬屋などの地名が残されており、津久井城の根小屋の中心と考えられています。また、お屋敷の発掘調査では、建物跡や煙硝蔵跡、深さ3mにも及ぶ空掘、土塁跡などが見つかっており、城主館跡と考えられます。

以上看板資料より


本城曲輪と土塁
本城曲輪は津久井城の中心です。周囲の尾根には何段もの曲輪や長大な竪堀が掘られるなど、とても堅固な作りになっています。土手状に残った部分が土塁です。これは土を突き固め盛り上げた防御壁で、敵を攻撃する台としても使われました。
(看板資料より)


宝ヶ池

いざ戦となって山城にたてこもっても、水がなくては戦いどころではありません。
宝ヶ池は、津久井城の水の手(溜井)のひとつです。江戸時代の地誌『新編相模風土記稿』は、「日照りや雨が続いた年でも、いつも安定して水をたたえている」と記しています。水が白く濁っていることから城兵が刀を研いたとも伝えられます。また水が枯れないところから雨乞いの行事にも使われました。

山城と水
中世にまとめられた城つくりの手引書「築城記」は山城を築くときの心得として、まず「水があることが大切、また水の手(井戸など)は遠くにつくってはならない」と記しています。水は戦はもとより、日常の城中生活に欠くことのできないものだったからです。また「水が枯れるので、やたらに尾根を掘ったり、大木の伐ってはいけない」ともあります。水の確保には常に気を配っていたことがわかります。

津久井城の水源
津久井城では宝ヶ池のほか、本城曲輪の北側と御屋敷跡で井戸跡がみつかっています。また山麓にはいたるところに水源があり、今でも豊かな水が湧き出しています。津久井城は水で苦労することはなかったでしょう。

以上看板資料より


烽火台と鐘撞堂

この付近は烽火台とも鐘撞堂とも伝えられます。戦国時代、城や砦の間の情報伝達には、天気の良い時には烽火(狼煙とも書く)や旗、吹流しなど、また夜間や雨の日には鐘や法螺貝などの「音」が使われました。津久井城周辺には、敵に備え多くの砦や烽火台が築かれていました。
(看板資料より)

烽火台の先に見晴らしの良いところがあり休憩することができます。ここからは三増峠の方を見ることができました。津久井城が三増峠の合戦の主戦場の裏に位置し、重要な場所であることがわかりました。また遠く横浜のランドマークタワーを望むこともできました。


飯縄神社

津久井城は峰が2つあって、ひとつは本城でもうひとつは飯縄神社になっています。飯縄神社の下には宝ヶ池があります。飯縄神社には飯縄曲輪跡の案内板もありました。


堀切と引橋

戦になると、ふだん使っている橋をはずし、本曲輪へ攻め入ることが困難になる仕組みになっていました。
堀切は尾根伝いに攻めてくる敵を防ぐため、尾根を逆台形に大きく掘り込んだものです。平時は木橋がかけられていますが、いざ戦となると橋を引いたり落としたりして敵を防ぎました。津久井城では山頂の尾根に三ヶ所の堀切があります。

引橋について
山城では木橋や土塁が使われます。この場所には引橋の地名が伝えられており、また古絵図にも橋が描かれていることから、堀切を渡る木橋が架けられていたものと思われます。木橋の構造はよくわかりませんが、はしごを横にねかせたような簡易なもの、コロや車輪を使い移動することができる引橋、もちろん現在の橋のように固定されたものであったようです。ただ、その多くは非常時には簡単に取壊したり、移動することができるものでした。
(看板資料より)



2003年05月24日

津久井城址

最後に寄ったのは三増峠から北に行ったところにある城山(津久井城址)です。最初に止めた駐車場からは登山道が発見できず、次に行った城山ダムのすぐ近くの駐車場からは登山道がありました。店の人に聞いたところ頂上までは約40分かかり、今日はもう時間が遅いのでやめたほうがいいとのことでした。蛇もでるのだそうです。残念でしたが次回に登ることにしました。40分もかかるということはひょっとしたら岩殿城より大変かもしれません。また情報によれば裏側の功雲寺の近くにも駐車場があってそちらから登ったほうが勾配は緩やかで比較的楽に登れるとのことでした。

 

 
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