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長野県松本市

山家城(中入城)

2004年06月19日

長野県史跡 山家城跡
山家城はふもとの徳雲寺(現徳運寺)と同時代の鎌倉時代の末期に構築されたと言われるが、以降戦国時代までの間改修を重ね、その規模が拡大複雑化している。ことに戦国時代末期に林城にいた小笠原氏の属城となってから大改修がなされ山辺谷最深部の要害として、その偉容を誇っていたが武田信玄の侵攻により林城と共に落城している。現在地名として「大手」「内城」等が、また土居、石垣、土壇の跡が残り、貴重な遺構となっている。
(看板資料より)

本丸裏手にあった石垣


麓の公民館で老人に場所を訪ねたら、徳運寺横から登っていくと水タンクがあるのでそこを更に登っていくと石垣のようなものが出てきて平らになっていて祠があり、10分くらいで行かれるとのことでした。しかしその先にも道は続いており、雑草が生えていて道がよく分からないままどんどん登っていきました。そのまま本丸らしきところに行けましたが、帰路道に迷ってしまいまったく違う谷に下りることになり大変な思いをしました。登りは30分ほどでしたが、下りは1時間以上かかってしまいました。下りは慎重に降りてこないといけませんね。


徳雲寺

松本市特別史跡 徳雲寺跡
徳雲寺は、元弘元(1331)年に山家郷の地頭である山家為頼が開創し雪村友梅の開山と伝えられる。雪村友梅はこの時、師である一山一寧が開山した諏訪郡の慈雲寺に住持していたが、山家氏の招きに応じ徳雲寺を開いた。雪村友梅は臨済宗の高僧で、幼少を鎌倉建長寺で一山一寧に師事し、18才で中国に学んだ。元朝廷から宝覚真空禅師の号を賜り帰国した。
徳雲寺は、その後衰えたが、永正年間(1504〜1521)に折野氏が中興した。天正10(1582)年武田氏とともに折野氏が滅ぶと寺は廃絶した。文禄年間(1592〜1596)に現在地に移って再興、また嘉永4(1851)年に焼失、安政元(1854)年に再建された。現在は徳運寺と改まり、曹洞宗となった。本尊の十一面観音は、毎年1月15日の厄除け参りには、大勢の人でにぎわう。
(看板資料より)

 

 
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