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神奈川県相模原市

小山田八左衛門行村墓


2014年01月04日

小山田氏は秩父氏の一流で、発祥地は小山田荘(町田市小山田)である。
その祖父有重は、はじめ平家に仕え、平家西国落のとき脱出して東国に帰り源頼朝に属して繁栄したが、頼朝没後その家人の対立激しく、建保元年の和田合戦により没落した。
降って15世紀のはじめに、甲州都留に本拠をすえて再興し、甲斐の守護武田氏と姻戚を結び、独自の領域支配をし、越中守信有が享禄5年居館を中津森から谷村に移して、出羽守信有、その子弥三郎信有がこれを継ぎ、その弟兵衛尉信茂の時、天正10年3月織田の先陣滝川一益に追われた勝頼に反逆した。しかし信茂も織田方に捕えられ斬殺され小山田氏も滅亡した。
八左衛門は名を行村といい、信茂の従弟と伝えられる。永禄12年8月信玄公小田原出陣のとき、酒匂川増水のためその瀬踏を仰付けられ、初鹿野伝右衛門とともによくこれを承り進軍に殊勲を樹てるなど常に信玄公御旗本に在り、はじめ使者12人の1人として勇智をもって活躍し、近習を経て隊長となり、勝頼の代には中老の功者と称され、重座にあった。信長は武田滅亡後も強力に残党狩りを行い、その勢力一掃を図ったため、国境を逃れた八左衛門の余命は極めて短く道志川を渡るとき狙撃され悲運な最後を遂げ里人の手によりこの地に弔られた。時は天正10年4月9日で勇心良誉信士という。
(看板資料より)

 



2003年11月23日

小山田氏は秩父氏の一流で、発祥地は小山田荘(町田市小山田)である。
その祖父有重は、はじめ平家に仕え、平家西国落のとき脱出して東国に帰り源頼朝に属して繁栄したが、頼朝没後その家人の対立激しく、建保元年の和田合戦により没落した。
降って15世紀のはじめに、甲州都留に本拠をすえて再興し、甲斐の守護武田氏と姻戚を結び、独自の領域支配をし、越中守信有が享禄5年居館を中津森から谷村に移して、出羽守信有、その子弥三郎信有がこれを継ぎ、その弟兵衛尉信茂の時、天正10年3月織田の先陣滝川一益に追われた勝頼に反逆した。しかし信茂も織田方に捕えられ斬殺され小山田氏も滅亡した。
八左衛門は名を行村といい、信茂の従弟と伝えられる。永禄12年8月信玄公小田原出陣のとき、酒匂川増水のためその瀬踏を仰付けられ、初鹿野伝右衛門とともによくこれを承り進軍に殊勲を樹てるなど常に信玄公御旗本に在り、はじめ使者12人の1人として勇智をもって活躍し、近習を経て隊長となり、勝頼の代には中老の功者と称され、重座にあった。信長は武田滅亡後も強力に残党狩りを行い、その勢力一掃を図ったため、国境を逃れた八左衛門の余命は極めて短く道志川を渡るとき狙撃され悲運な最後を遂げ里人の手によりこの地に弔られた。時は天正10年4月9日で勇心良誉信士という。
(看板資料より)


小山田八左衛門に同行していた折花姫、翁、姥はその後更に青野方面に逃げましたが、途中翁と姥は討ち死し、一人だけ残った折花姫も自害した。現在はその地に「折花宮」が祀られている。
→折花神社

 

 
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