←前のページへ トップページ↑ 次のページへ→

山梨県韮崎市

更科姫館跡

2013年09月07日

更科姫を偲んで
北信濃の領主村上義清の家老落岩寺馬介の一人娘、1519年に信濃国更科村に生れた。文武両道に優れ信州一の女性剣士とし、又教養を高め美貌と共に、日本の女性三傑の一人として高く評価された。相木采女介依田幸雄を結ばれ、夫は武田信玄の家老馬場美濃守の身代わりとなって名を相木美濃守信房と改め、遠州諏訪原城主となり15年間の安泰を守り抜いた。その間一人息子幸盛(後の山中鹿之助)を養育する。京を目指す15歳の幸盛と別れ、武田勝頼の命により高天神城を落とした夫信房と共に城代として8年間城を守ったが、家康の猛攻に憤死した夫の意思を受け家臣達を助けるため必死の苦境を乗り越え、富士川より甲斐に連れ帰り、道々家臣の安住を求めつつこの地に居を構え天満宮を祭り、夫、息子、家臣の回向をしながら生涯を閉じる。明治8年から昭和12年まで上ノ山と岩下を更科村と称した。
(石碑記載文章より)

 

 
←前のページへ トップページ↑ 次のページへ→