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山梨県韮崎市

涙の森

2013年09月07日

 
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武田勝頼は織田軍の追撃に堪がたく、天正10(1582)年3月3日、自らに火を放ち家臣小山田信茂の待つ、郡内の岩殿城さして落ちのびて行くときここで赤々と火の手の揚る新府城を眺め、戦国の世のきびしさに胸をうたれ涙にむせんだ。勝頼夫人は「うつつにはおもほえがたきこのところあだにさめぬる春の夜の夢」と一首を詠じ名残を惜しんだ。韮崎市婦人会の建立になる、その歌碑がある。
(看板資料より)

 



2003年08月30日

 

武田勝頼は織田軍の追撃に堪がたく、天正10(1582)年3月3日、自らに火を放ち家臣小山田信茂の待つ、郡内の岩殿城さして落ちのびて行くときここで赤々と火の手の揚る新府城を眺め、戦国の世のきびしさに胸をうたれ涙にむせんだ。勝頼夫人は「うつつにはおもほえがたきこのところあだにさめぬる春の夜の夢」と一首を詠じ名残を惜しんだ。韮崎市婦人会の建立になる、その歌碑がある。
(看板資料より)

 


 

涙の森は中央高速の韮崎インターの近くにありますが場所は分かりづらいところにあります。新田次郎氏の小説「武田勝頼」でも阿弥陀の森として出てきます。行ってみるとただ木が生えているだけのところに看板が立っているだけで、新府城と思われる方向を見てみましたがどれが新府城かは分かりませんでした。
勝頼一行はここから炎上する新府城を振り返ってなにを思ったのでしょうか? 父信玄が率いる武田軍団は徳川家康、織田信長を追い詰め、その後信玄の死により一時その勢力は後退するものの、勝頼の代になって高天神城を攻略するなどして、織田信長や徳川家康に対して優位に立っていたころを思えば、たった数年後にまさか自分がこんな状況になってしまっているとは思いもつかなかったかもしれません。既に大勢の家臣が離反してしまい名門武田家も自分の代で滅んでしまうのだ!と感じ、きっと涙を流さずにはいられなかったことでしょう。

 


回看塚
泣石

 

 
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