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長野県飯田市

鈴岡城

2004年3月13日

鈴岡城址案内図

この城跡は、飯田市駄科の西北にある段丘の東突端、標高約490メートルにあり、自然の地形を巧みに利用して構築された平山城跡で、いくつかの空掘で区切られた本丸、二の丸、出丸及び二つの外郭並びに西方高地にある遠見原の要害からなっている。
築城は、小笠原貞宗の第二子宗政が松尾家から分家して鈴岡家をはじめた頃といわれる。宗政は貞和元(1345)年天竜寺供養の際随兵を勤めているが子孫は判明していない。
築城以来、松尾・鈴岡・深志の小笠原三家の間においてしばしば不運な争いが起こり消長を重ねたが、天文23(1554)年8月武田晴信(信玄)の伊那進攻により松尾城の支城となり、天正18(1590)年廃城となった。鈴岡小笠原家は一時期には宗家の松尾小笠原家に代わって南伊那を治めているが同家の居城であった。
この城跡は幾多の興亡の歴史を秘めてほぼ原形に近い形で保存されており、中世の南信濃における平山城の遺構を探る上で貴重な城跡である。
(看板資料より)

鈴岡城の概要
鈴岡小笠原氏の居城として15世紀後半の戦国時代に用いられた鈴岡城は、竜丘駄科区と伊賀良殿岡地区の中間に位置して台地の突端部にあり、標高490メートル、北は毛賀沢川の侵食による深さ約60メートルの谷を隔てて松尾城址と相対している。
城址はこのように天然の地形を利用した平山城で、その中に人工を加えた幾多の空掘や郭等が設けられている。この図にはないが外郭から西北方向の斜面にも300メートル程の間にいくつかの郭が形成され、全体では東西300メートル×南北600メートルにわたる大規模なものであった。
松尾小笠原氏とは同族の間柄であるが、信濃守護職をめぐり、鈴岡城主が松尾側に殺される等争いが絶えなかった。一旦は断絶となった鈴岡城はその後再興したが1554年に武田信玄の攻撃をうけ落城した。
城址は昭和46年に県史跡に指定された。現在、本丸と出丸は公園として利用されており、二の丸と外郭は畑となっている。また毛賀沢川にかかる不動ヶ橋を利用して対岸の松尾城址え行くことができるが、松尾城も現在公園として整備されている。
(看板資料より)

二の丸の堀


鈴岡城は鈴岡公園を目指して行きましたが坂を下っていく途中に突然左側に公園への入口がありました。公園の案内板のところに車を止めて案内板を見ると本丸と出丸は公園として整備され、二の丸の方は木が生えていました。それぞれの郭の間は大きな空掘で仕切られていていました。出丸は展望台のような感じになっていてここで休憩していたら更に先に下っている遊歩道からおじさんが登ってきていたのでこの先に何があるのか聞いてみるべく登ってこられるのを待ちました。おじさん曰く、この先を下って毛賀沢川にかかっている橋を渡って行けば松尾城に行かれるのだそうです。鈴岡城と松尾城は毛賀沢川を挟んで本当に近いところに位置していました。大声で叫べば声が届きそうな感じでした。昔はこの道ではなく、出丸から東のほうに見える段々畑のところを通って行く道があったのだそうです。また鈴岡城と隣の松尾城との間は兄弟で対立していたが鈴岡城側が松尾城側に殺されてしまったのだとも言っておられました。殺された場所が城の東側の麓にあるらしいです。
二の丸側は公園ではないのですが大規模な空掘の遺構が残っているので是非こちらの方も見ていかれることをお勧めします。

 

 
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