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東京都大島町

武田信道および家臣供養塔並びに屋敷跡


2012年01月08日

都史跡
武田信道および家臣供養塔並びに屋敷跡
甲州武田信玄の孫信道夫妻およびその子信正は、元和元(1615)年大久保長安の罪に連座して大島に配流された。この時8人の家臣が主に従ってともに渡島したが、信道は寛永20(1643)年大島で歿し、信正は寛文3(1663)年赦されて内地に帰った。この供養塔は信道夫妻ならびに家臣のうち配処で死亡した富士井丹波守、同杢頭、大島平馬、渡辺治郎、同友右衛門の墓であり、屋敷跡は信道らが居住したところと伝えられている。
信道らの配流については「武徳編年集成」南方海島志・大島流寓の部に記載されている。古来野増村ではこの7人を「七人様」と尊称し、村開発の先祖として崇め、供養塔を建立して供養を行い、屋敷跡には小祠を祭っている。
東京都教育委員会
(石碑記載文章より)


武田信道及び家臣供養塔

武田信玄の孫、信道夫妻とその子信正は、元和元(1615)年、先に処罰された甲州代官大久保長安に関連有りとされ、連座の罪で大島に流された。信道は寛永20(1643)年に大島で没し、信正は寛文3(1663)年に赦されて、48年目に一族と共に内地に帰った。信道の妻「まま」、同行した9名の家臣のうち5名は大島で没した。野増墓地には大島で没した信道夫妻と家臣の供養塔があり、屋敷跡は野増の町中にある。「武田信道及び家臣供養塔並びに屋敷跡」として昭和31年3月3日、東京都の史跡に指定されている。
(樋口秀司氏編:伊豆諸島を知る辞典より)

野増の七人様はこれと関係ありと思われる石塔2基があって史実を現しているようではあるけれども、時代も人物も判明しないので伝承として取り扱った。これについては多年にわたり考察につとめてきたが未だにスッキリした結論に到達しない。
野増の七人様の由来については土俗的に伝えられている口承は次の通りである。
何時の頃か、御用船(他島通いの流人船とも伝えた者があった)が、野増沖で遭難し、7人の溺死体が漂着したので村民はこれを鄭重に葬り、茅舎をつくって弔い供養した。
別に考えられることは次に掲げた2柱の石塔の記載についてである。
○野増古先祖7霊石塔 維時文化二丑(1805)年八月彼岸日 施主邑中
○為当村開発七人霊菩提也 維時天保十亥(1839)年七月朔日
  施主 野増村 周蔵、米蔵、忠兵衛、清吉、新兵衛、助蔵
これら、漂着の伝承の七人霊と供養塔に刻まれた七人霊とは、全く別の性格のグループであり、それが同人数であったため、何時とはなしに混淆してしまったものであろう。
因みに野増の七人様を、流人武田顕了及びその家臣等とする新説について一言すれば、これは去る昭和27年山梨県の郷土史家と称する某氏が来島し、どんな史実の実証を得たものか知らないけれども突然生まれた新説である。
かつて野増には流人は置かなかったと考えられるので、以上多分に不自然と思われるところがないではない。それはともかくとして、古来からの伝承、文献、遺跡等によって見ても、七人様は野増開発の恩徳者ではあっても流人などとはおよそ関係ないものと考えられ、また関係づけるようなことは誠に申し訳ないことである。
(立木猛治著:伊豆大島志考より)

武田信玄の次男信親は武田勝頼の時代に入ってからはその関係が悪かったらしく、自領の河原部郷の年貢の籾子を納められなかったため、甲府へすみやかに送るよう、厳重な注意を受けている。もし納めなければ成敗するとまで書かれているから、信親が勝頼を軽視していたらしい様子さえ読み取れる。いずれにしても天正10年武田氏は亡び、信親もまた甲府市住吉の入明寺に入って割腹自殺を遂げた。年齢は42歳だった。
入明寺で自刃した信親には一人の男の子があった。天正2年生まれの信道で母は穴山梅雪の娘だったといわれている。諸書によって相違はあるが、母子は信親から離縁されて信玄の命によって甲府長延寺の住職実了上人に再嫁させられ、信道は長延寺に入ると顕了と称されるようになったという。
天正10年武田氏滅亡の年、顕了は14歳になっていたが、織田勢の攻撃を恐れた養父実了上人は入明寺の住職栄順上人と相談し、顕了を長延寺の寺領の信州伊那郡の犬飼村に逃がし、村民の保護を得て隠れ住んだという。
その後織田信長の死などもあって、入明寺の栄順の計らいで甲府に戻った信道は、甲府尊躰寺で徳川家康に拝謁、長延寺の再興を許され、また再興にあたっては本願寺顕如上人から一字名を戴き、顕了となるのである。
(甲斐の虎信玄と武田一族より)

 


武田信道屋敷跡

前日に大島町の郷土資料館に連絡してから訪問した。当日は同資料館の樋口秀司氏に出迎えて頂き、資料館内で各種資料を頂くと共に武田信道公の供養塔等について説明してくれました。それによると、野増の「武田信道及び家臣供養塔」についてはもともと武田信道に関わる証拠が無く、東京都教育委員会が石碑を建ててしまったために都の史跡になってしまったとのことでした。現場にある説明文にも8人の家臣と書いてありますが、実際は9人だったとのことで次の通りとのことです。
富士井丹波守、富士井杢頭、西川喜善次、森島新吾、大島平馬、大島源五左衛門、渡辺治部、渡辺友右衛門、板坂仙九郎。

地元の方による考察の結果、これが武田信道の供養塔ではないとしても、武田信道夫妻及び9人の家臣が大島に流されてきたことは事実であり、その記念碑として残されているわけであり今後も大切に残して欲しいと思いました。

供養塔がある場所から、元町方向へ少し行ったところに武田信道の屋敷跡という場所があり、同じく樋口氏に案内してもらいました。大島一周道路沿いに灯台があって向かいには大黒屋というお店があるので目印になると思います。

 


入明寺

 

 
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