(第3章) 白いコートを着た女
「あの・・・・。」
「あの・・席なんですけど・・」
いったい彼女は何者なのだろうか?あっけにとられる私を尻目に、 「早く・・・!」と言いながら私のグラスを隣に移し変えようとした。 「ちょ、ちょっと待ってよ。俺もいつもここなんだよ。後から来て、 席かわれって、しかもあってまだ、すぐに・・。」私は、急な展開に思わず動揺していた。 すると、彼女はしばらく黙り込み、そして、おもむろにバックの中に手をやり何かを出しながら言った。 「じゃー。賭けをしましょう?私が、今からこのコインを投げます。それを当てた方がその席に座る。 どう?これなら文句ないわね。」 「うん!」私は、思わずうなずいてしまった。 「それでは、数字の書いてあるほうが表ね。いい?はい!」 彼女の投げたコインは、空中でくるくると円を描きながら彼女の手の中に吸い込まれていった。 「私、表ね。あなたは裏でいいでしょ。」彼女は、さも当然と言わんばかりに言ってきた。 「俺も表だと思ったんだけど・・。」 「駄目よ!レディファーストよ!いいわね。」彼女の言い分は一方的であるが、何故か不思議と 言い返す気にはならなかった。 「わかったよ。いいよ。」その言葉以外の選択肢は私には用意されていなかった。 「それでは、ジャンジャジャーン!はい。表でした。はーい!じゃーあたはあっち!。」 彼女は、あっけにとられている私を尻目に私のグラスを移動し、羊飼いが羊を追い出すような 手つきで席を交換されてしまった。 私が、困惑な表情を浮かべていると、オーナーが静かに口を開いた。 「太陽君、ごめんね。実は、彼女は、毎週、金曜日にやってきて必ずその席に座るんだよ。 その他の曜日の君みたいにね。今日は、金曜日だ。彼女の言うとおりにしてやってよ。」 さすがに、オーナーに頼まれると何にも言えなくなってしまう。 もっとも、賭けをして負けたのは私なのでオーナーには言われるまでもないのだが。 「ねぇー!マーシー いつもの頂戴。」 彼女は、私のことをまったく気にする様子もなく得意気に言った。 「ちょっとマーシー?って何?」私は、彼女を見ながら呟いた。 「え!知らないの。マーシーは、マスターシェフの略よ。このオーナーは料理、飲み物、 そして、心配りなんてまさに、達人!私たちお客の心を料理する達人と敬意を称して マーシーって呼んでいるの!結構いいネーミングでしょ。」 正直ドキッとした。ネーミングはともかくとして、すくなくとも、僕と同じ理由でこの店に足しげく通っている人がいたからだ。 そんなことを考えていると、マスターが心を見透かしたかのように声をかけてきた。 「太陽君、グラスが空いているよ。次お作りしましょうか?それと食事はどうします? 召し上がりますか。」私は、短く答えた。 「料理は、いつもみたいにお任せします。飲み物は、ソルティー・ドックを一杯。」 ソルティー・ドックというお酒は、イギリス生まれのお酒であり、カクテルについて あまり知らない人にとっては、「塩の犬」とすごいネーミングだと思う人もいるだろう。 イギリスでは、船の甲板員をさすスラング(俗語)で、しょっぱいやつという意味である。 スノースタイルの塩とグレープフルーツのほろ苦さが海の男を連想させるに ふさわしいロングドリンクのカクテルである。今思えば、これを選んだのは、 今夜、私自身、無意識の内に酔ってはいけない、長丁場になると感じたからであろうか。 私は、マスターにオーダーをした。 そしてまず、私は、とにかく心を落ち着かせ、彼女を観察してみることにした。 ふと脇においてあるバックを除いてみると、赤い傘が入っていた。 少々の雨なら傘をささない人もいる。でも、この大雨の中で傘をささない人はいない。 まして傘をもっているのに。私は、次第に彼女に興味を覚えていった。 そして、「いったい彼女のいつものお酒とは、何だろう。」と。 私は、マスターの動きをじっくり観察してみた。 マスターは、まず、氷の入ったミキシンググラスにアンゴスチュラ・ビターズを入れ、 それにアメリカンウィスキーを3/4入れ、スイートベルモットを1/4をいれ、それをステアし始めた。 この段階で、私の頭の中のコンピューターはある答えを弾きだした。彼女は、「やる気」だと。 なぜならそのカクテルの名前は「マンハッタン」インディア語で「酔っ払い」という意味だからだ。 その由来は、その昔、オランダ人がこの土地を買収するため酋長に酒を飲ませて契約書に サインをさせたらしい。酔いがさめた酋長は、「俺は、マンハッタン(泥酔)だった。 と叫んだことからきている。このお酒は、女性向けだが、アルコール度数がとても強く、 スクリュードライバー同様レディーキラーと称されるいわくつきのカクテルでもある。 マティーニがカクテルの王様なら、このマンハッタンは、まさに、カクテルの女王である。 そのカクテルをいつものと一杯目に頼むということは、この人は、「酔うつもり」でここに来ていると いう証拠である。私は、なんとなく負けた気がした。 「はい、どうぞ。」、マスターは、まず、彼女に、そして、次に私の前にグラスを置いた。 私は、まず冷静を装いそれを飲もうとした。しかし、その瞬間、いきなり彼女から質問攻めが始まった。 「ねぇー!いつ頃からこのお店に来ているの?マーシーの話だと常連さんでしょう? 私と一回もあったことないよね。私、この店通ってもう2年位かな?そう、丁度、このギムレットが 来るか来ないかくらいだったと思うけど。」 ドキッとした。そして、私は、思わず動揺しながら答えた。 「ち、ちょうど、同じくらいです。いろいろな経緯があったのですが、ギムレットを連れてきたの,俺ですから。」 「へぇー!そうなんだ。ということは、2年間、同じ店へ通っていて、一回もあわず、 同じこの席をお互いこの席に座っていたってことだよね。これって結構すごいことじゃない?」 彼女は、小悪魔の微笑みで私に言った。 でも、確かにそうである。これは、すごいことである。 もし、どっちかが、曜日を間違えて、来ていたら普通は、顔をあわせていたはずだ。 しかし、それが2年間も会わないなんて。これは、まさに奇跡である。 それにしても、今日は、本当に不思議な日だ。 そして、私は、彼女にいろいろな意味で、ますます興味を持ちはじめた。 今度は、私が、彼女に質問をした。「ねぇ!ひとつ聞いていいですか?」 「なに?」 「あのこの席のことなんだけど、普通というか、もし、私だったら、先に人が座っていたら、 いくらその席が自分の指定席であっても、さすがに「かわって」とまでは言えないなと思って。 私も当然、先客がいたことは、何回もあるけど、当然、かわってもらったことなんてないよ。」 すると、彼女は、あごの下で両手を組み、顔の角度を傾け、上目使いで、 さも当然といわんばかりの表情で私に答えを返してきた。 「理由は、簡単よ。私、左からの角度が特に、自身あるの。私きれいだと思わない?」 ・・・・私は、これまで、何人かの女性と付き合ってきた。 友達や会社の仲間を入れれば数多くの女性と知り合ってきた。 人間過去のデーターから蓄積されたもの以外のことが起きると驚くものである。 まさか、こんな答えが返ってこようとは。 私は、結局「はぁー・・・」しか言い返せなかった。 ここでも勝負に負けてしまった。 すると、マスターが、敗北感に打ちひしがれている私に声をかけてきた。 「まぁー。こうやって出会ったのも何かの縁だし、それに二人とも私にとって大切なお客様です。 せっかくだから自己紹介でもしたらどう?」マスターが、仕切り直ししてくれたことにより、 少し体勢を整えることができた。 「す、すいません。紹介遅れまして、青山太陽といいます。どうぞ。よろしく。」 彼女は、待っていたかのように痛烈に切り返してきた。 「ちょっと自己紹介ってそれで終わり?他になんかあるでしょ。いまどき小学生の自己紹介だって もう少しまともなこと話すわよ。それに、何さっきからおどおどしているのよ。別に、 とって食べようとしている訳じゃないんだから・・・。」 もっともだと思った。別におどおどする必要はなかったが、しかし。 「青山太陽 出版社勤務 30歳 趣味は、映画鑑賞とドライブと絵を描くこと。好きな食べ物は、 カレーライス。あっそれに、昔、バイトでバーテンの仕事をしていたので、 カクテルなら多少作れるかな・・・・これくらいかな?・・駄目・・かな?」 私は、彼女の顔色を伺いながら言った。 「それじゃ、さっきと変わらないじゃない?・・・まぁーいいわ。私、古内朋子よろしくね。」 「えっ!俺に駄目だししててそれだけなの?」私は、思わず彼女に問いただした。 「まったくわかってないわね。太陽君。聞きたいことをこの後、私との会話の中であなたが 引き出していくんでしょ。太陽君、女の子に全然もてないでしょう?」 ・・・またもや責められた。 それにしても、この女は一体・・。なんてやつだ?やはり、今日は、金曜日。 きっと、かわいい顔をした悪魔が私の前に現れたのだ。 ジェイソンも真っ青だ!やはり、「金曜日は外出しないに限る」と心の中で呟いた。 「朋子ちゃん、もうそれ位にしてあげてよ。太陽君だって、あってすぐに次から次だったら考える 暇ないでしょう。それより、グラス空いていますよ。次は何になさいますか?」 正直、マスターの声が天使の声に聞こえた。 「そうね。ごめんなさいね。ちょっとからかっちゃった。」 「では、マーシー、ダイキリをお願い。」 ダイキリとは、サリンジャーの小説、「ライ麦畑でつかまえて」の中でも何度も登場し、 キューバーの都市サンチャゴの郊外にある鉱山の名前である。19世紀末、この鉱山で働いていた アメリカ人技師が地元キューバー産のラムとライム、砂糖を使って作ったのが 始まりといわれているカクテルである。 このお酒もなかなかどうして 、かなりアルコールが強い。 「改めて、自己紹介します。古内朋子です。生まれた年は、アカデミー賞で「ゴットファーザー」が グランプリを獲った年。・・・ということで趣味は、映画鑑賞と・・・この店に来ることかな?」 私は、思わず言った。「ゴットファーザー?ということは、俺と同い年?何だ・・・ てっきり年上かと思ったよ。まぁー外見は、若く見えるけどね。」 「そうなの?私もあなたのこと年下かと思ってたわ。なんかおどおどしているんだもん。」 「そりゃー!おどおどするさ。いきなりあれじゃね。」 「そうかな?私の周りじゃ当たり前だったけどね。」 「そうなんだ。・・・・ふーん。・・・ところで今、何をしてる人?」私は、素朴な質問をしてみた。 彼女は一瞬、憂いの表情をみせたが、瞬時にいつもの表情に戻り、 「とりあえず今は、・・・・家事手伝いというか家事見習いかな?」と言った。 私は、感覚的に、何かを隠しているような気がしたのでこれ以上この話をすることは止めにした。 私は、話題を変えようとした。「了解。さっき、趣味、映画鑑賞って言っていたよね。 今までの見た映画のベスト3ってなにかな?」 「人に聞くなら先に答えて。同じ質問をします。あなたのベスト3は?」 彼女は、私の質問に悪魔の微笑みで返してきた。 そういってさっきみたいに私に言わせておいて、・・こんなのベスト3?」って言う気だろう?読めているよ。」 私は、彼女の瞳をみながら言った。 彼女は、ばつの悪そうな表情で私を見やった。 「読まれていたか?・・少しは、短時間で成長したわね。」 そして、それは、初めて勝ちを感じた瞬間だった。 「そうね。でも難しいね。3つって決められないな。いいのいっぱいあるしね。 でも、最近の映画より古い映画が好き かな。なんか泣けるのよね。・・・私、変わってる?」 「そんなことないよ。むしろ俺も古い映画のほうが好きだな。今、みたいに映像に頼ってないぶん 台詞の巧みさとか間の取り方とかが絶妙でそれが全体としてすごい良い雰囲気を出してるんだと思うんだよね。」 「そうなのよね。だから、古い映画って、何回もみてしまうの。そして、何回も笑えるし、何回も 泣けるの。きっとそう意味で感情移入がしやすいのかもしれないね。」 「そうだね。」 「ちなみに、古い映画のなかでどんなの映画が好き。」 「そうね。例えば、ヘップバーンだったら「昼下がりの情事」とか。チャップリンだったら 「ライムライト」とか。」 「俺も大好き。昼下がりは、8回は見たかな?ヘップバーン作品だと、「ローマの休日」や 「ティファニーで朝食を」あげる人が多いけど俺は、断然、ビリーワイルダー 監督の 「昼下がりの情事」だな。後、チャップリンだと「黄金狂時代」「モダンタイムズ」など サイレント映画をあげる人が多いけれど、「ライムライト」のほうが好きだな。 特に、あのシーン 最後に、カルヴェロが芸人として復活する最後の舞台のシーンで、 かつてのライバル、バスター・キートンがピアノ弾きに扮して出るとこなんて 映画好きには最高のシーンだよね。」 「本当に詳しそうね。それでは、モダンタイムズの「SMILE」やライムライトの 「テリーのテーマ」の曲を書いたのが、チャップリンだって知っていた?」 「もちろん知っていたよ、いいよね。あの曲。寂しさの中に、何かあったかさがあるんだよね。 でも、自分で、脚本書いて、演じて、曲も書いて本当にチャップリンは天才だと思うよ。」 「そうね!私もそう思うわ。しかも、チャップリンは楽譜が読めなかったんだからそれで、 あんな素敵なメロディがかけるなんて本当にすごいわ!」 「そうだね!」私は、感心しながらうなづいた。 「でも。この話をしてわかる人って少ないのよ。なんかうれしい。でも、一つだけ言っておくね。 私は、両方とも10回以上は見ているけどね。つまり、私の勝ちね。」 彼女は、照れた表情で私に言った。 「悔しいな。好きな映画で見ている回数で負けるなんて。」 私は、その時、悔しさと同時になぜかうれしさを感じていた。 ねぇー!他には、どんなの好き」 「そうだね。例えば、コメディでいくとやはり、ビリーワイルダー監督の 「お熱いのが好き」なんかいいわね。トニー・カーティスとジャック・レモンの女装姿と洗練されたギャグもいいし、 シュガー役のマリリン・モンローも最高に可愛かったな。」 「後、あの最後のシーン、大金持ちのジョン・Eブラウンが女装したジャック・レモンに、 求婚するラストシーン・・「あたし、子供を生めない体なの」「養子をとればいい・・・」 業を煮やしてカツラを振り捨てたジャック・レモンが、「俺は男だ!」といったあと、 ブラウンは少しも慌てず平然と、ボートを操縦しながら「Well,no one’s Perfect!」 (欠点は誰にでもあるさ!)と言ったシーンなんか、非常に面白かったね。 まさに、ハイセンスコメディの最高傑作って感じだよね。」 「本当にそうね!でも、ワイルダー作品では、「お熱いのがお好き」よりも、私は、「アパートの鍵貸します」の方が 好きかな?」「シャーリー・マクレーンとジャック・レモンの名コンビぶりがすばらしかったし、特に、 最後のシーンで、ジャック・レモン扮するバクスターとシャーリー・マクレーン扮するキューブリックがトランプを するシーンなんてなんかせつなさとうれしさで最高だったわ。」 「そうだね。あのバクスターのキューブリックの行動が完全に把握でき ていない表情と それに、対してすべてを吹っ切ったあのキューブリックの力強い最高の笑顔がね。」 「ほんと。そう!」 「それにしても、この監督は小道具の使い方うまいよね。例えば、銃声と思わせるシャンパンとか スパゲティーをテニスラケットで水きるシーンとか。」 「最近の映画じゃ、まずそこまで考えている監督や脚本家はいるのかしら。」 彼女は、茶目っ気たっぷりな表情で言った。 「後は、どんなの好きだったの?」 「そうだね。50年代のMGMのミュージカル映画好きだったね。特に、フレッド・アステアや ジーン・ケリーなんて最高だった。」 「好きな作品当ててみようか?」彼女は私の目をじっとみながら言った。 「・・「雨に唄えば」でしょう!」 「な、なんで分かったの?ミュージカル映画ていっぱいあるじゃない。例えば「イースターパレード」 や「バンドワゴン」や「巴里のアメリカ人」だって。」 私は、驚きの表情で彼女を見やった。 「理由は、簡単よ。だって、・・私が一番好きな映画だから・・。」彼女は、照れた表情で私を見た。 「じゃーひょっとして好きなシーンは、ジーン・ケリーとデビー・レイノルズ、ドナルド・オコーナーが、 グッドモーニングを歌うところかな?」 「そう!なんかあのシーン見ているとすべていやなこと忘れさせてくれるの! ・・・でも、あのシーンも、もちろん好きよ。」 やっぱりね。ジーン・ケリーが、雨の降りしきる中、ひとりで踊り歌うシーンでしょ。 「I'm singing in the rain 〜♪♪ってね。なんか見ていてうきうきしてくるよね。」 「本当、そう!なんか、すごくうれしい。この感覚がわかる人がいたなんて・・・。」 彼女は、とびきりの笑顔で私に返してきた。 私、今まで映画で使われる雨のシーンて嫌いだったの。なんかすごく寂しくなるから。 例えば、「ティファニーで朝食を」のラストでオードリー・ヘップバーンが迷子の猫を抱きしめながら キスするシーンとか。でも、「雨に唄えば」は違うのよね。あの雨の中をすべての迷いから 時は放たれてただ、陽気に踊っている姿がなんともいえないわ。本当に大好き。」 「では、それで今日みたいな大雨の日でも、傘があるのに、傘もささずに濡れてきたの? ジーン・ケリーみたいに。」 私は、何気なくさっき感じたことを聞いてみた。 彼女は、一瞬、暗い表情を見せたが、すぐに、「そうよ!今日は、特別な日だからね。」 と明るく切り返してきた。 「特別?・・」私は、彼女にこの「特別」の意味を聞いてみたかったが、この雰囲気を 壊したくなかったので話をもとに戻した。 それにしてもいったい、いつ以来だろうこんなに好きな映画の話をしたのって・・・・そして・・・。 「太陽君、朋子ちゃん、ちょっといいかな?話盛り上がっているところごめんね。料理できたけど おいていいかな?とりあえず、牛ヒレのステーキの和風味と、カマンベールのチーズフライに なります。」 すまなそうに、マスターが二人の会話に入ってきた。 「どうぞ!すいません。すっかり話こんでしまって。」 「古内さんも食べますか?」 「本当、うれしい!ありがとう。じゃー少し貰おうかな。マーシー はしもらえますか?」 「ところで、太陽君。朋子でいいよ。私、苗字で呼ばれるあんまり好きじゃないんだ。 朋子って呼んで。」彼女は照れながら言った。 「わかったよ。・・・朋、朋子さん。」私もちょっとだけ照れた。 「はい、どうぞ!それより、お二人さんグラスあいているよ。何か飲むかい?」ふと、我に返ると、グラスが空いていた。 夢中で話していたのでいつの間にか全部飲んでしまったらしい。 「あ、すいません。シンガポール・スリングをお願いします。」シンガポール・スリングは、 ジンベースのカク テルでありとても飲みやすいお酒である。 「では、私は、オレンジ・ブラッサムをお願いします。」 オーナーは、流れるような手つきで、瞬く間に、2杯の作品を完成させた。・・・まずは、一口。 何度も言うが、ここの料理とカクテルはともに最高である。 人が入らないのが本当に不思議なくらいだ。 やはり、店の名前が悪いのだろうか?何せ「The Long Goodbye」直訳すれば、「長いお別れ」 いくらチャンドラー好きでも、普通この名前をつけないと思う。 そして、入ると黒猫「ギムレット」がお出迎え。やはり、勇気がないと入らないな。 変に納得しながら、カクテルを口にした。すると、彼女も同じことを考えていたのだろう。 マスター(彼女の言い方を変えれば、マーシー)に質問をした。 「ねー。他の曜日は、知らないのだけど、いつもお客さん少ないよね。大丈夫なの?お客さんながら ちょっと心配になるわ。もし、大変なら、太陽君、確か、出版社だったよね。 この店どっかに取り上げてもらったら?どう?」 我ながら気づくのが遅かった。私も毎度、心配していながらこの方法に気がつかなかったとは。 「そうですよ。うちの雑誌に、名店紹介のコーナーがあったので是非、連絡してとりあげて もらいましょうか?きっとお客さんいっぱいきますよ。」 するとマスターがゆっくりとした口調で言った。 「もし、紹介されて、君達の指定席がなくなってもいいのかな?」マスターは私の顔をのぞきこんだ。 「いいよ。私は、この店が本当に好きな人だけに来てもらいたいんだ。その気持ちだけもらっておくよ。 ・・・ありがとう。」・・・私は、正直その言葉にほっとした。 自分でいってなんでだが、小さい頃から、隠れ家や秘密基地が好きだった。 それは、友達にも親にも知られたくない自分だけの空間。そのときの気持ちを思い出した。 私は、一言「わかりました。」と短く返事を返した。横を見ると彼女も同じ気持ちのようだった。 今後、この話がでることは二度となかった。
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