(第6章) When I Fall In LOVE
台風一過という言葉がある。文字通り嵐が過ぎ去った後は、青空が広がり、すべてを洗い流してくれる。
今の私の気持ちもそれに似ている。すっきりした気分である。
「あっ!そうだ!ピアノの蓋開けっ放しだった。勝手に使ってしまってすいません。今、閉めてきます。」
彼女は、突然思い出したかのように言った。
すると、マスターが言った。「ちょっと待って。朋子ちゃん。昔みたいに君のピアノが聞いてみたいな。」
「どうかな?弾いてもらえないかな?」
彼女は、しばらく考えながら、そして照れながらいった。「うん!いいですよ。今夜は。」
「そうそう!ピアノすごく良かったよ。うまいね。」
「そう
かな?太陽君もなにか弾いてほしい曲ある?。」
「何が弾けるの?」
「まぁー。とりあえずは、何でも大丈夫だと思うよ。」
「マーシーは、何がいい?それともあの曲?」
「そう!じゃあれをお願い!」それは、まるで、マスターとお客の立場が逆転した
感じだった。
「じゃー!太陽君は、弾いているうちに考えていてね。」
「うん!わかった。」私は、短めに答えた。すると、彼女は、奥にあるピアノのほうへ向かった。
そして、カクテルを作るマスターさながら、優雅な動作でピアノを弾き始めた。
それは、まさに、白鳥が水面を優雅に泳いでいるかのように。
正直、今日はこの店に来てから驚きの連続である。彼女の奏でる演奏は、じっくり聞くと上手という域を
超えていた。
そして、それを言葉で表すとしたら、「感動」という言葉でしか表せなかった。
そして、しばらく彼女の演奏に 聞きいった。
演奏している曲は、「枯葉」というスタンダードJAZZの名曲で、もとは、フランスのシャンソンとして有名な
ポップ・ソングだったが、マイルス・ディビスが演奏して以来そのコード進行の面白さが手伝って大変有名になった
曲でもある。
私は、ふと我に返り、マスターに尋ねた。
「マスター!彼女すごくないですか?さっきはいっぱい いっぱいでさほどは感じなかったけど。改めて聞くと、
ちょっとびっくりです。こんな感覚初めてです。なんかうまく言えないけど本当すごいです。」
「太陽君、君の言っていることは正しいよ。彼女、有名なピアニストだったからね。それも、日本有数のね。」
「だった?過去形なのですか?」
「いや。これは、表現を間違えたね。今は、少し休んでいるだけかな?」
「そうですか?」その時、私の口からこれ以外の言葉が出なかった。そして、私は、また彼女の演奏に耳を傾けた。
「枯葉」の演奏が終わり、二曲目に移っていった。その二曲目というのが、チャップリンの名曲「SMILE」
であった。
この曲は、映画「モダンタイムズ」の主題歌として使われた曲で、
54年にジョン・ターナーとジェフリーパーソンズが歌詞をつけ、さらにヒットした曲でもある。
そして、その歌詞がこれである。
「さぁ笑って心を抱えていても 笑ってごらん ぎこちなくたっていいよ 空が雲で覆われて
暗がりが広がるとき 微笑が救ってくれる 恐れも悲しさも通り抜け さぁ笑ってごらん
今すぐじゃなくたっていい 夜明けの太陽を 感じられるから 君のためにそそぐ光を
喜びをつれて、その顔に明るく差し込むこの光が悲しみの影が残したどんな軌跡も隠してくれる
涙がこぼれ落ちるような気持ちが芽生えたら そのときこそあきらめず 立ち向かってゆこう
笑顔をみせて 泣いて知り得るものは何? 微笑みは、まだ見ぬ明日がまっていること
教えてくれるよ そう ただ笑顔を浮かべるだけで・・・・」
この時、私は、まだ気づいていなかった。なぜ彼女がこの曲を弾いたのかを・・・。
そして、彼女の演奏が止んだ。
「太陽君、何か弾いて欲しい曲思いついた?」彼女は、ピアノ越しにこっちを見ながら言った。
私は、グラスを片手に持ち、彼女の方へ向かった。
「朋子さん。俺、感動しました。多分人生で聞いた演奏の中で一番です。」
「そんなにおだてても何も出ないよ。」彼女は笑いながら言った。
「昔は、それなりに一生懸命頑張って弾いていたけど・・・自分の限界が見えたから、やめたの。」
「そんなことないよ。だって・・。」
「それで、何か弾いて欲しい曲は決まった?」彼女は、私が言おうとしていることをさえぎるかのように言った。
私もそれを理解し、彼女にリクエストをした。
「ちょっと王道過ぎて恥ずかしいのだけど、昔から俺の中で、フランクシナトラやナット・キング・コール
大好きだったんだ。あの声を聞いていると幸せというかやさしい気持ちになれるんだよね。お願いできる?」
「王道いいじゃない。私も大好きよ。特に、ナット・キング・コールや娘のナタリー・コールが歌っている
L-O-V-Eが一番好き。」
「あっ!俺もそう一番好き。」
「本当に!」彼女はうれしそうに答えた。
「じゃー王道メドレーいこうかな。久々の演奏会でちょっと緊張しちゃうけど。じゃー聞いてみて。
マーシーと太陽君そしてギムレットの為に弾かせていただきます。ただ、私は、ピアノ演奏者なので、
あのすばらしい声は出せませんがご容赦願います。」
彼女は、私にウィンクをし、そして華麗な動作で再びピアノを弾き始めた。
それは、天使が奏でているかのごとくに。
そして、それは、至福のときであった。その王道メロディーは、「L-O-V-E」から始まり、「TOO
YOUNG」
,
「UNFORGETABLE」,そして,「When
I Fall In Love」邦題「私が恋に落ちる時」まで計4曲続いた。
音楽というものは、不思議である。人種、性別、文化、年齢そして時代すべてものを超え人々に感動を
与えることができる、それは、神様がすべての人間に与えた最高の贈り物だと思う。
彼女は、演奏を終え、私を見やり、そして言った。
「どうだったかな。少しお酒によっているのでそこは、ご勘弁を!」
「最高だったよ。」私は言った。そして、その気持ちに嘘はなかった。
「久しぶりにピアノ弾いたので、興奮して喉渇いちゃったな。何飲もうかな。」
僕らは、寄り添うように、カウンターのほうへ戻った。
そして、僕が席を座ろうとした瞬間、彼女が照れながら言った。
「いつもの指定席に座っていいよ。私、こっちに座るから。」
「えっ!でも。」
「いいの。座って。」私は言われるままに、腰を下ろした。そして、自分なりにいろいろ考えてみた。
「でも、左側の角度が自信あるんじゃないの?」私は、おどけた表情で、さっきの彼女の仕草を真似て言った。
「じゃー聞くけど。私は、右側は駄目?」同じように、あごの下に手を組み、顔を傾け上目づかいで私を見やった。
「いや。右、左関係なくお美しいです。」
「それならよろしい。」僕らは、笑いながら言い合った。
「マーシー!ファジーネーブルをお願いします。」
「はい、喜んで。」マスターは微笑みながら言った。
「どうしたの?急に、かわいらしいの飲むね。ファジーネーブルなんて。」
「それは、私だってか弱い女性ですから・・。なんてね。久々にピアノを弾いてちょっと興奮しているので
あんまり強いお酒だと酔っちゃいそうなんでね!」私は、納得と言った表情でうなずいた。
「では、マスター私にも、モスコミュールお願いします。」
モスコミュールとは、「モスクワのラバ」という意味で、ラバとは、ロバと馬との雑種で 、
頑固者、強情ものという意味があり、またラバの後ろ足で蹴られたみたいによくきく酒という意味もある。
また、アメリカにウォッカを広めたカクテルとしても有名である。
「はい、お二人さん!」テーブルの上にグラスが置かれた。
「それにしても、朋子ちゃん相変わらず見事な演奏だね。いつ以来だったかな。聞いたのは。」
飲み終えたグラスを片付けながらマスターは言った。
「そうですね。もう覚えてないです。」
「今日は、なぜ、弾く気になったの?」私は、彼女に尋ねた。
「それは、今日とっても楽しかったからかな・・・。それに、マーシーと太陽君とギムレットに
どうしても聞いて欲しくなっちゃって・・私の演奏を。」
「ありがとう。じゃー俺は、今日ここに来れてラッキーだったね。こんな演奏が聴けるなんて。」
私は素直な気持ちで彼女に言った。すると、彼女は、短く答えた。
「こちらこそありがとう。気持ちよく弾くことができたわ。」
「ねぇー。いつごろからピアノ始めたの?」
「確か5歳位だったと思うわ。」
「俺、よく知らないけど結構、練習するのでしょ。一日、どの位していたの?」
「思い出したくない記憶ね。コンクールの前なんて10時間近くもするのよ。」
「青春時代は、すべてピアノのことだけだったわ。」彼女は複雑な表情を浮かべてこちらを見やった。
「大変だったんだね。じゃー。結構、有名なコンクールとか出ていたの?」
「まぁー、一応、優勝したこともあるわ。それに、海外への音楽留学の最終選考まではいったからね。」
正直、自分のプロフィールすら書くことない自分がはずかしくなった。
「でも、先生が駄目でも教え子は、海外へ羽ばたいていったわよ。」
「教え子って?」
「私、ある時期アルバイトで、将来有望な中学生に、ピアノを教えていたの。
一応、これでも肩書きは、日本音楽コンクール優勝者だったから。」
私はこの時、まだこのコンクールがどんなにすごいのか知らなかった。
「その子はどうなったの?」
「その子は、アメリカにある、The
Juilliard School (ジュリアード音楽院)に合格したの。」
「それってすごいの?」
「すごいのって!私なんか逆立ちしたって入れないわ。そこの出身者でいうと、イッァーク・パールマン
(バイオリン)ヨーヨーマ(チェロ)・・といっても、まー、わからないでしょうけど。」
「確かに。」
「とにかく、すごいんだね。」
「すごいのよ!ただ、その子は、家の事情がかなり複雑で、結構いろんな問題起こして苦労させられたけど、
でも才能はすごかったわ。今頃ちゃんとしていれば、フリーナ・アワーバック国際ピアノコンクールあたりでも
優勝しているかもしれないわね・・・。」彼女は、遠い目をしながら言った。
「こんな話やめましょう。せっかくのおいしいお酒が台無しになっちゃうし、今日とっても楽しいの
本当に。だから・・・。」彼女は、さっきまでとは違う表情で私に言った。
「人に歴史ありだね。本当に。」私はいろいろな意味をこめていった。
「そうよ。ねぇー!マーシー。マーシーだっていろいろあるもんね。」
彼女は、自分の話題をそらすかのように言った。
「長い人生、生きてればいろいろあるからね。」私は、この店に通ってもう2年近くになる。
でも、マスターのことについては何も知らない。
この時、マスターが言ったこの一言が、なぜかすごく重みのあるものに感じられた。