サーザンの誤解も解け、取りあえずの危機は逃れた
ミレニアたち。しかし、アーヤンの置き引きが端を発した
『竜の剣』騒動はいまだ渦中の中。
竜の剣を狙うもの 『スレーム帝国』 と 『ノーレイン』 とは
一体何者なのか。
息を吐く暇は、まだ無い―――。


せるふぃっしゅ道中記 第2章 過去の幻影
1.

月明りもない漆黒の闇の中をシルンは必死に走り続けていた。
家に灯る灯りもなく、街灯すらその道を照らしてはいない。けれど、シルンは迷って足を止めることはなかった。
幼い頃から生まれ育った街の道を忘れるわけがない。
呼吸は乱れていたが、そんな事に構っている余裕は無かった。
今ここで自分が止まってしまったら何よりも大切な物を失ってしまう。
それは、唯一の確信だった。
「!!」
黒に染め上げられていた街に、色彩が舞い降りた。
いつのまにかシルンの前を一人の少女が走っていた。その姿を目にしてシルンは辛いのも忘れて声を張り上げた。
「テレナ!!」
しかし、少女は振り返らない。シルンの存在など感じていないかのように、ただひたすら前に向かって走ってゆく。
「テレナ…!!待って…、待てってば…行くな!!テレナ!!」
シルンは声の限りに叫んでいた。それでも少女には何の変化もなく走り続ける足も止まらない。
シルンの足はもう限界だった。けれども足を止めるわけにはいかない。どうしても。
やがて、夜の街の向こうに、ぽっかりとあいた黒い穴が現れた。
街の夜の闇とは比べものにならないほどの、圧倒的な冷たさ。
言い知れぬ恐怖が、離れた場所まで伝わってくるようだった。
その淀んだ闇に向けて少女は走っていたのだ。
「行くな、テレナ!!行っちゃ駄目だ!!」
そこへ行ってしまったら、もう二度と還れなくなるから。絶望的な不安に、シルンの胸が締め上げられた。
その瞬間、突然シルンと少女の間に障害が現れた。
それは、一人の初老の男。肩から斜めに走った傷から、どくどくと血を溢れさせていた。
しかし、明らかに致命傷であるはずなのに男は倒れることなく立っている。淀んだ眼を、シルンに向けて。
シルンの足が、思わず止まった。その男の姿を見て、立ちすくんでしまったのだ。
「どこへ行く?シルン」
聞きなれた声よりも、低い声。それは地獄の底から響いてきたような声だった。シルンの背に冷たいものが流れ落ちる。
「…と…養父さん…」
「どこへ行くんだ、シルン…。私を…殺して…!!」
男の目がギラリと光る。シルンは思わず身構えた。気がつけば、シルンの腰には剣が佩いてある。
けれど、それを抜くと言うことはその男と闘うことを意味している。頭を振ってシルンは叫んだ。
「養父さん、どいてくれ!テレナが…!!」
「テレナ…?あの…娘のために、お前は私を殺すのか?…この私を、二度も!!」
男が、漆黒に染まった剣を振りかざした。迷うことなく、その剣をシルンに向けて振り下ろす―――!
「二人まとめて、死んでしまえ!!」
「―――っ!!」
迷うよりも先に身体が動いた。腰から剣を抜くと、男の太刀筋を読んで、紙一重で避ける―――!
そして、隙だらけの男を、勢いに任せて切り倒した。肩の傷とまったく同じ場所に、もう一本の傷が生まれた。
「…あ…あ…」
地に伏した男が苦しそうに呻き声をあげる。シルンはそれを直視する事が出来なかった。
『シルン…』
「!!」
突然自分の名を呼ばれて、シルンは慌てて穴の方へ目を向けた。
昏い闇に半分身体を溶け込ませた少女が、静かな眼差しでシルンを見つめていた。
その瞳は、澄んだルビーの輝きを称えていた。
「テレナ!!」
『シルン…さよなら…』
「駄目だ!テレナ!!」
シルンが叫んで、力の限り手を伸ばす。
けれどもその手は少女に届くことはなく、悲しい微笑を浮かべたまま少女は闇の中へと消えた。
所在を失った手が、虚しく宙を掻く。
「……テレナ…!!」
届く場所のない叫びが、夜の街に木霊した。どれくらいそうしていただろう。
不意にシルンは面を上げ、呆然と闇を見つめた。何かに導かれるように、シルンは闇に手を伸ばした。
「―――っ!!」
その闇に触れた瞬間、痛みや哀しみ、憎しみといった負の感情が一気に流れ込んできた。
けれども手を引く気はしなかった。戻る場所はもうない。行く先は、この闇の先―――ただひとつ。
魅入られるようにシルンも少女のように闇を受け入れていった。
「お姉様――…、シルン様――…」
「……っ!?」
幻影ではない現実の声にシルンの意識が引き戻された。目の前に迫っている闇ではなく、生きた人間の少女の声。
「シルン様!」
シルンの名を呼びながら、こちらに走ってくるのは先ほどの少女よりは幾分幼い少女。
けれど、懸命にシルンに向けられる眼差しは、あの少女と同じルビーの輝きを持っていた。
「セリーユ!」
シルンは少女の名を叫んだ。
来てはいけない。見てはいけない。彼女までが闇に染まってしまうから。
闇に取り込まれそうになる意識の中で、シルンは声の限りに叫んだ。
「来ちゃ駄目だ、セリーユ!!」


「!!」
突然、目の前に広がった光景に、シルンは息を呑んだ。
けれどよく目を凝らせば、それは昨夜床についた宿屋の天井である。
「………夢、か」
混乱する頭で、シルンは呆然と呟いた。そうだ、夢に決まっている。
テレナは死んだ。養父であるウィシャンテも死んだ。愛しい故郷は、もう帰れない場所なのだから。
シルンはゆっくりと体を起こした。真冬だというのに、寝汗をびっしょりとかいていた。
息苦しさを振り払うように深呼吸して、シルンは隣のベッドに眼を向けた。幸せそうな顔でターヴィが鼾をかいている。
起こすのも悪いと思い、シルンは灯りを点けずに部屋を出た。
隣の部屋からは扉越しに、凄まじい歯軋りとよくわからない寝言と苦しそうな唸り声が聞こえてきた。
それぞれの持ち主を思い浮かべてシルンは苦笑し、足音をなるべく立てないように廊下の端まで歩き出窓を少しだけ開けた。
頬を刺すような冷たい空気が流れ込んでくる。冷気にさらされて、寝ぼけた頭もゆっくりと覚醒して来た。
シルンは小さく溜息を吐いた。
「…ホント、人のことに構ってる場合じゃないって…テレナに怒られるな」
サーザンの『竜の剣』に匹敵するだけの事件の火種が、シルンにもあった。
だからこそシルンは三年もの間逃亡生活を続けてきたのだ。
ターヴィやアーヤンはもちろん、ミレニアにすら詳しい事情は話していない。彼女たちを巻き込むつもりは毛頭ないからだ。
いつかは袂を分かたねばならない時がやってくる。それは覚悟の上だ。けれど、今はまだその時ではないから。
「…ひとりで辛そうなサーザンを、放っておけないだろ?」
誰にともなく、シルンは尋ねた。それは、天から見下ろしているはずのテレナへなのか。
それとも、たった一人で残してきたセリーユへ向けてなのか。
月の浮かんだ星空を仰ぐと、寂しそうに笑って、シルンは窓を閉じた。そして、シルンは静かに部屋へと戻っていった。
半竜の少年・ノーレインは月夜に照らされた水面をじっと見つめていた。
風が吹くたび、小波が映した景色をかき消してゆく。
その水面のずっと下…光の届かない暗い海の底には、聖なる結界が張られている。
そこには、人々を救うために人身御供の道を選んだ、二人の半竜が眠っているのだ。
死んでいるのではない。けれど、目覚めない。
ノーレインは水面に手を伸ばした。冬の海は冷たくて、寒さよりも痛みを感じた。
こんなに冷たい所に、二人は眠っているのだ。
「………」
五年前、自分たちは間違いのない選択をしたはずだ。それなのに、まだ道は開けない。
ようやく扉を開く鍵を見つけたのに、それはすり抜けるようにどこかへ行ってしまった。
乾いた冷たい空気のせいで、吐く息が白い。
いつも自分の傍らにあった優しい腕を思い出して、ノーレインは少しだけ切なくなった。
その時、不意に肩から布がかけられた。驚いて振り向くと、水竜のハーベラが優しげな微笑を浮かべていた。
「いつまでも外にいらっしゃると、風邪を引きますよ」
ノーレインは、彼女の気配にも気付けないほど感情に浸っていた自分に恥ずかしくなった。
それを隠すように、視線を逸らすとハーベラに言い返す。
「…そんなに子供じゃない」
その反応が可笑しかったのかハーベラが笑っているのが気配でわかった。
無性に腹が立ったノーレインは、黙って立ち上がるとハーベラの方を振り向かずに踵を返した。
「あ!お待ちください、ノーレイン様…」
拗ねた様子で場を離れた主人の後を、ハーベラは慌てて追いかけた。
ノーレインに追いついても決して並ぶことはなく、半歩引いた位置からハーベラが言葉をかける。
「ノーレイン様…竜の剣の事ですけれども…」
「……わかってる。お前のせいじゃない」
ハーベラが言葉を続ける前に、ノーレインがそれを遮った。
『竜の剣』を前にして、手も足も出せなかったことをハーベラが悔やんでいるのを知っていたからだ。
竜の剣――それがノーレインが求めてやまないものであり、二人を救う鍵だった。
「スレーム帝国だったな…。そんなのに太刀打ちできると、お前を過信してるわけじゃない」
ハーベラは、『護り』の魔法には優れているが、それほど攻撃力があるわけではない。
ノーレインの力を借りなければ、人間に姿を変えることも出来ない彼女が、竜の帝国など歯向かえるはずはないのだ。
「……それに、同族…か」
ハーベラが見たものは竜の帝国の騎士たちだけではない。竜の剣を手にしていたという白の青年。
それは、竜の守人だったという。
「…ノーレイン様…」
「ハーベラ。俺は相手が誰だろうと引く気はない。それが、竜の帝国でも、同族であってもだ」
ノーレインは竜の守人の強さを知っている。半竜として生まれた二つの魂の結びつきの強さも。
それは、かつてノーレイン自身が守人『守竜』と辿った道だからだ。
「俺は誰にも負けない。…絶対にだ」
ノーレインは、己の掌を固く握り締めた。そこには、かつてノーレインが守竜と誓った決意がある。
「えぇ」
小さな半竜の少年が背負うにはあまりにも重いものの存在。
それをほんの少しでも支えてあげられたらと、ハーベラは思うのだ。
脆弱な魔力ではノーレインの足元にも及ばないけれど、彼を慕う気持ちは、彼の守人にすら負けていないはずだから。
「ハーベラ」
「何でしょう、ノーレイン様」
「その…半竜の正体を調べろ。それが誰で、何で竜の剣を持っているのか」
「…はい」
ノーレインのそばに在る事が何よりの幸せであり、ノーレインの望みを叶える事が至上の喜びである。
ハーベラは微笑んでノーレインの言葉に頷いた。
月が見下ろす庭園で、二人の男女が寄り添っていた。
息が白くなるほどの冷えた空気は澄み切っていて、晴れ上がった星空が零れそうに広がっていた。
「きれいね」
それを見上げて、少女が素直な思いを口にした。青銀の巻き毛にブルーの瞳の愛らしい少女だった。
深い海の色のような紺の髪の少年はそれを愛しそうに見つめていたが、その表情にはどこかぎこちなさがあった。
それを見咎めて、少女は口を尖らせた。
「…ユーザー。私といるの、楽しくないの?」
「…え?…あ、いや、そんな事はありませんよ…」
少女が気を悪くしたので、少年はあわててそれを否定した。それは少年の正直な気持ちだった。
少女といるのが楽しくないのではない。彼女を愛しているのは本当だ。けれど、問題はそんな事ではなくて。
「また!また『ありませんよ』なんて言って!二人の時は、普通に話そうねって言ったじゃない!!」
少女が怒ったようにまくし立てる。少女は、少年に敬語で話されるのが嫌いだった。
それは、自分たちの間にある『壁』の存在を、否応なしに感じてしまうから。
「…シールレーナ…」
「なぁに?ユーザー」
己の名を呼ぶ少年を、少女はくりくりっとした目で見上げた。迷いを知らない純粋で無垢な瞳。
きっと、少女にはわからない。今こうしている事が、どれだけ間違ったことなのか。
「やっぱり…よくないよ。こういうの」
それを口にしたら、少女がどんな顔をするか。それが解っていたから言えなかった一言を、少年はようやく口にした。
その言葉を聞いた瞬間、少女の表情が凍りついた。
そのまま言葉もなく―どれくらいそうしていたか。ようやく、少女が口を開いた。
「……どうして?」
「どうしてって…。身分が、違うから。シールレーナは、僕なんかと一緒にいちゃいけないんだよ」
少女と少年の姿を見比べてみれば、その差異は一目瞭然だった。
見事な角を持った美しい人型へと変化できる少女とは対照的に、少年の角はおかしな具合に歪んでいたし、日に焼けた腕にはざらざらした鱗が残っていた。
この高貴な少女の隣に少年はいてはいけない存在なのだ。しかし少女は頑なにそれを認めようとはしなかった。
「何で一緒にいちゃいけないの!?私とユーザーは愛しあっているのよ!?それを止める権利なんか、誰にもないわ!!」
「でも!!シールレーナは、この国で一番尊い存在じゃないか!それが、僕みたいな一介の庭師なんかと……こうして会ってちゃ、いけないんだよ…」
そう答えたきり少年は口をつぐんだ。少女を愛しいと思う気持ちは本物だ。
けれどそれが許されぬことだと言うことも解っていた。決して許されぬ恋なのだと。
「そんな事ないわ。私が一番偉いんだもの。全部、私に決める権利があるんだわ」
「シールレーナ…。そんな事言っても、大臣たちは聞かないよ。だって、この国はシールレーナが動かしてるんじゃない」
少女は、この国の皇帝だった。両親が急な病で夭折したため、幼くして帝位に就いた幼女帝だ。
けれど幼い少女に国の全てを任せるような大臣などいるわけがない。少女は名ばかりの皇帝だった。
「今はね。でも、いずれは私が動かすの。あんな奴らに、口なんか挟ませない」
「…動かすって?何をする気なの?」
少年が尋ねると、少女は喜々として瞳を輝かせて答えた。
「…驚くわよ!この大陸を支配するの!…うぅん、オミクロンだけじゃない、いずれはユプシロンも、イプシロンだって!!三大陸中の国々が、このスレーム帝国の元へ跪くのよ!!」
あまりの答えに、少年は呆然とした。スレーム帝国が…この竜の帝国が、世界を支配する?
「そうしたら、誰も私のすることに口なんか挟めないわ!私が一番偉いんだって、知らしめる事が出来るもの」
「待ってよ…シールレーナ。そんなこと出来るわけが…」
「出来るわ。出来るって、アズシが言ったもの」
反論する少年に少女がぴしゃりと言い返した。
「アズシは何でも知ってるわ。アズシが教えてくれたの。竜の剣があれば、竜族の悲願を果たす事が出来るって。神の怒りなど恐れずに、私たちの力が奮えるんだって」
「…でも、それは怖いことだよ」
「怖くなんかないわ。だって私たちは幸せになれるのよ。私たちが幸せになる道はそれしかないのよ!!」
熱に浮かされたように、少女はそう繰り返した。少年は言葉を返す事が出来なかった。
「ね、ユーザー。だから悪いことなんて何にもないのよ。私たちは一緒になれるの。ずっと一緒よ」
少女が小さい身体で少年に寄りかかった。少年は黙って少女の身体を抱きしめてやることしか出来なかった。
スレーム皇帝・レゼ十二世。シールレーナ姫。
城の若い庭師。ユーザー。
それは、決して許されるはずのない恋だった。

そして。
庭園の若い恋人たちを見下ろすひとつの影があった。
それはこの国の宰相たる女、アズシ=クレーナその人だった。


寒い夜の、それぞれに抱いた想い。
冷たい光で地上を照らす、月だけがそれを知っている。
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