過去のわだかまりを超え、和解したシルンとサーザン。
バラバラだった5人にもそれなりの結束が生まれてきた。

一方、「竜の剣」を付け狙うもう一人、ノーレインは ―――…。


せるふぃっしゅ道中記 第3章 氷の少年
1.

オミクロン大陸の南東に位置する竜の帝国では、皇帝自らによる審問の最中であった。
国の要たる幼女帝は、煌びやかな衣装に身を包み、玉座に平然と腰掛けていた。
しかし、彼女にはそれに相応しい格はまだ足りないと言えた。
幼女帝の隣には、国の宰相たる女性・アズシ=クレーナが控えていた。
彼女たちの前では、一人の騎士が膝をつき報告を続けていた。
「……よって、竜の剣の奪還は失敗に終り、我が帝国の汚点となるべき失態を…」
苦々しげに言葉を綴るのは金茶色の髪をした竜族の男だった。
少々長めの前髪から覗く切れ長の涼しげな目元も今は見る影もなく、帝国でも一、二を争う美男と称されるその顔は恥辱に染まっていた。
その原因は、先の闘いにおけるスレームの騎士・ルーメイトの失態だった。
スレーム帝国の幼女帝・シールレーナは、その報告に耳を傾けながらも、その表情は不機嫌そのものだった。
上手く行く筈だった計画がいきなり躓いた。それも、半竜の守人などの妨害によってだ。
竜族の気高き血をひく彼女に、それが許せるはずもない。
「言い訳はたくさんよ。結局は失敗した―そういう事でしょう?」
シールレーナは、尖った声で騎士を詰った。その声に騎士の表情が一段と硬くなる。
それに構うことなく、少女は言葉を続けた。
「あのルーメイトは確か…お前の弟だったわよね。ケスレ=アズルーン」
「は…」
スレーム帝国竜騎士団・二番隊隊長ルーメイト=アズルーン。
彼と、その兄たる騎士――ケスレ=アズルーンの仲の良さは、城内でも有名であった。
だから、誰もが知っていた。ルーメイトの失態と死に、誰よりも憤りを感じ、心を痛めているのはケスレ自身なのだと。
しかし、そんな事に同情するようなシールレーナではない。
彼等達騎士は他の誰のためでもなく、シールレーナのために、その務めを果たさねばならぬのだから。
「半竜などに負けたなどとは帝国始まって以来の恥。本来なら、お前の『家』に責任を負ってもらうところだけれど…」
シールレーナは一旦言葉を切り、傍らに控えるアズシに視線を向けた。
その意味を理解し、アズシは落ち着いた物腰でケスレに対し言葉を発した。
「陛下は、お前に名誉挽回の機会を下さるおつもりだ」
「――――…有り難き、幸せにございます」
それは、彼の真実の言葉であった。その言葉は彼が願ってやまないものであったから。
名誉挽回の機会――つまりは、弟の仇である半竜を殺す機会を与えられたと言う事。
ケスレは、瞳を閉じると、宣誓ともいうべき言葉を口にした。それは、彼の決意であった。
「我が愚弟の失態を繰り返すような事はいたしません。必ずや、陛下の御前に、竜の剣をお持ちいたしましょう」


審問を終えシールレーナが退席した後、玉座の間には、アズシとケスレが残された。
主たる皇帝を見送ると、アズシはその視線をケスレに向けた。卑しい者を見る、明らかな侮蔑の瞳。
「本来であれば、一家断絶が妥当である所を…陛下のお気立ての良さに、感謝する事だな」
嘲笑するようなその声音に、ケスレは苦々しげに顔を歪めた。
ケスレはシールレーナの威を嵩に着るアズシを毛嫌いしていた。
生粋の竜族でもないくせに平然と皇帝の傍らに佇み、いたずらに愚言を弄する。
そもそも「竜の剣を」などと言い出したのはアズシだという。その為に彼のたった一人の弟は命を落とした。
「黙れ。貴様に言われる筋合いはない。大人しく陛下の機嫌を伺っていればよかろう……この下女が!!」
「ふ…大神官ともあろう者がとんだ口の聞きようだな。この私が忠言すればお前の首など簡単にはねられるというのに…」
「虎の威を借る狐めが、過ぎた口を叩くな!目障りだ!!」
アズシの態度に我慢の限界が来たのか、ケスレが一喝する。
彼の怒りは今にも炎の奔流となって玉座の間を覆わんというばかりであった。
しかしその態度にすら、アズシは臆する事がない。
宰相ではなく女王かというような悠然とした態度で、ケスレを見下ろしていた。その唇には笑みさえも刻まれている。
「……!」
何を言っても無駄と悟ったのだろうか。ケスレは踵を返すと、去り際に捨て台詞を残していった。
「貴様に言われずとも、我がスレームに盾突く愚か者どもには、この私が直々に手を下してやる…!貴様は下女らしく、陛下の靴の先を舐めておればよかろう…」
ケスレの姿が、完全に玉座の間から消えるまで、アズシはケスレから視線を逸らさなかった。
それは獲物を前にした狡猾な狐の目であった。
「楽しみに待つ事にしよう、ケスレ=アズルーン。貴様の朗報とやらをな……」
竜の剣の件は当面ケスレに任せておけばよいだろう。
アズシはケスレを侮蔑していたが、彼の力はそれなりに評価している。
曲がりなりにも、この竜の帝国において大神官の位を持つ男である。
どこの者とも知れない半竜の守人などに遅れは取らないだろう。
彼が竜の剣を持ち帰れば良し――よしんば失敗したとしても、他に打つ手はまだある。
それよりもアズシにはまだすべき事があった。彼女の計画を邪魔する、もう一人の――…。
「もう一匹の、邪魔なネズミを可愛がってやるとしようか…」

薄暗い洞窟には滴り落ちる水音が静かに響いていた。
自ら生み出した光源の元、ノーレイン=クラールは古ぼけた魔道書をめくっていた。
その顔には年には似合わぬ陰りが刻まれていた。
『解呪の法』―ノーレインが開いているページにはそう綴られている。
光神ミナスの妹神・闇神トジャーの封印魔法や呪術を無効にする魔法である。
(……違う)
それはノーレインが求めているものではなかった。封印魔法を無効にする―すなわち消滅させてしまうやり方ではノーレインが取り戻したかったものも全てが一緒くたに消えてしまうのだ。それでは何の意味もない。
(やっぱり、光の魔法では無理なのか…)
ノーレインは幼いながらも、自分の魔術に関してはかなりの自信があった。
最も得意とする氷の魔法には及ばずとも、光の魔法も自在に操ることが出来る。
だから光の魔法で事が済むのなら…何も「竜の剣」など無くてもよいのだ。
しかし、それはやはり不可能な手段らしかった。
解呪の魔法ではなくごく弱い光の魔法で封印の結界を破綻させ、そこから結界の中にいる二人に呼びかける―「自ら封印を解くように」と。そうして内から結界を消滅させる事ができれば、長きに渡るノーレインの願望がようやく叶うのだ。
五年前、誰よりも何よりも大切だった半身、守竜を失ってでもノーレインが望んだ切なる願いが。
「守、竜…」
それはたった一人の姉の名だ。もう還らない大切な少女。
目を瞑ればすぐに脳裏に浮かぶのは、春のような微笑を称えた柔らかな美貌だ。
光を称えた優しげなその眼差しが、急に純白のそれに変わる。研ぎ澄まされた美しさ。白い、白い半竜。
「――!!」
それは、ハーベラから報告で聞いた竜の守人の姿だった。
竜の剣を携えるという半竜人―敵なのか味方なのかさえ知れない。
唯一わかっているのはスレーム帝国の騎士をも倒したという圧倒的な実力だけだ。
(…いや、その程度なら負けない)
負けられない理由があるから、対峙したなら絶対に勝つ自信がノーレインにはある。
けれど、問題は彼が本当に敵であるかということだった。
半竜人と、その守人―守竜と同じである彼が己の醜き野望のために竜の剣を奪ったとは考えたくない。
どんな理由であれ、シュトラル=セレナを殺して竜の剣を奪ったとは―――…。
ノーレインはうめくように息を吐くと、重いその本を閉じた。結局、どんな魔道書も参考にはならない。
必要なのは「竜の剣」だけだ。「竜の剣」を手に入れる―それが最善にして唯一の道だった。
「そのためには、どんな事だってしてみせる…」


ノーレインは薄暗い洞窟を出ると、海に続く道を降りた。
ごつごつとした岩場の下に広がるのは凍るのではないかというほど冷たい冬の海。ノーレインが求める者が眠る海だ。
竜の剣などなくても、ここから呼べば彼らは応えてくれるのではないかと錯覚しそうになる。
幼い頃のあの優しい眼差しもそのままに。
「………」
けれど、それは残酷な幻想に過ぎなかった。
幼い頃、応えの返らない沈黙の海に向かって何度彼らの名を呼んだろう。
一人で泣いた日を懐古すると胸の奥が小さく痛んだ。
「……ハーベラ」
呼びたい名を我慢して、ノーレインは海に向けてそう呼んだ。すぐさま海面から顔を覗かせるのは見慣れた女竜だった。
ハーベラはわずかに上気した面をノーレインの方へと向けた。
「ご報告があります、ノーレイン様」
「……件の、守人のことか?」
「いえ…けれど、それに関係する話ではあります。シュトラルを殺害した者がわかりました。ユプシロンに渡ったシュトラルを襲った者…それは、我が同胞ともいえる…スレームの騎士でした」
ハーベラの報告にノーレインが眼を瞠った。その言葉は竜族の帝国・スレームが自分たちの敵であることの決定打だった。
「間違いはないな」
「ございません」
自信を持ってハーベラが頷く。彼女の生真面目さはノーレインも良く知っているだけに、確かな情報なのだろうと確信出来た。
しかし、そうなるとやはり一つの疑問に辿り着いてしまう。
(…それなら、半竜たちは一体何者だ?)
ノーレインの部下であるナーレーダは、得体の知れない旅人たちをシュトラルの仇と思い込んでいた。
しかしシュトラルを殺した真犯人はスレームの騎士であるという。
ならば「竜の剣」を擁するあの者たちは、一体何であるというのだろう。
いくら考えても答えは出て来ない。情報があまりにも少なすぎるのだ。
(…これ以上、待つだけでは何も変わらないか…)
結界の側を離れるわけにはいかないと留まっていたが、ただ待っているだけでは事態は改善しないのだ。
ハーベラの力では守人にもスレームにも遠く及ばない。だとしたら選ぶ道は一つしかない。
「……俺が行こう」
「ノーレイン様!?」
ぽつんと呟いたノーレインの言葉にハーベラが顔色を変える。
それは今までノーレイン自身が禁じてきた行為ではなかったか。
「結界の事はどうなさるのです!」
「……ハーベラ、俺はもう後悔したくない。今動かなければ、きっとまた見失うんだ」
蚊帳の外に置かれて見る事が出来なかったと言って、誰かのせいにはしたくない。
だから、自分自身の力で道を切り開く。答えは自分自身の手で掴む。
「すぐに戻る。必ずすぐに戻る…だから、それまでお前がこの結果を守っていてくれ」
「ですが…!」
ハーベラはなおも食い下がった。ハーベラに結界を守りきる自信がなかったことももちろんあるが、最大の理由はノーレインを危険に晒したくなかったからだ。
竜の帝国といいあの白い竜の守り人といい、あまりにも危険な香りがしすぎる。
ハーベラはノーレインの強さを信じていたけれど、それでもノーレインの決意は認めがたいものだった。
「どうか、お待ちくださいノーレイン様。何もノーレイン様が行かれることはないのです。よく、お考えになって…」
言い募ろうとするハーベラだったが、不意にその言葉が途切れた。ノーレインの顔色が変わった。
「ノーレイン様……?」
「しっ!」
ノーレインはハーベラに黙るよう指示し、耳を澄ませた。
何者の侵入も防ぐためにここら一帯には魔法で編まれた結界の糸を張り巡らせてある。その糸が不穏な悲鳴を上げた。
それを超えて立ち入ろうとしている者がいたのだ。
「ノーレイン様…っ!」
ハーベラが事態に焦って声を上げたがノーレインが取り乱したのは一瞬ことだった。
どうせ争いになるなら、ここで意地を張る必要もない。潔く迎え撃ってやろうとノーレインは結界を解いた。
その直後、ノーレインのすぐ目の前に緑色の光の柱が立ち上った。風の男神の転移魔法が発動したのだ。
その中から黒い甲冑に身を固めた数名の騎士が現れた。ノーレインは臆する事なく視線を彼らに向け問うた。
「お前達は何者だ?何の用件だか知らないが、わざわざ俺の結界を踏み越えて来たからには、相応の目的があるんだろう」
堂々とした口調は彼の年齢からすれば生意気以外の何者でもなかった。
騎士たちもそう感じたのだろう。彼らの先頭にいた黒い兜に銀の筋のある男が一歩進み出てノーレインを見下ろした。
威圧の視線を向けて彼はノーレインの問いに答えた。
「我々は偉大なる皇帝陛下の命を受け竜の帝国に弓引く逆賊を討ちに参った」
その答はノーレインの予想していたものだった。同じ竜の剣を求める者。
求めるものが一つしかない限りいつかは対峙しなければならないのだから。
「しかし、それがこんな幼子の…しかも半竜だとはな。我々も低く評価されたものだ」
男の言葉にはどこか嘲笑するものがあった。
彼だけではなく、黒い鎧を身に纏った誰もがノーレインを嘲っているのが肌で感じ取れた。
その態度にノーレインの後方に控えたハーベラは鬼の形相を浮かべたが、ノーレインはその言葉にも顔色一つ変えなかった。
嘲笑されるのは慣れていた。竜と人の間に生まれた狭間の子。半分しか竜の血がなく半分しか人の血がないため、どちらとして生きるにも中途半端な存在で相容れる事が出来ない。
けれどノーレインは自分の血に誇りを持っていた。半竜であるが故、出会えた彼の半身にも、彼女から託された力にも。
「最後の警告だ。早々にこの場から去れ。さもなくば、手加減はしない」
それ以上竜の騎士たちを憤らせる言葉はなかった。ノーレインを見下ろす男は真っ赤に顔を染め、剣を振りかぶって叫んだ。
「殺せ!」
それに応じて数名の騎士が一気にノーレイン襲いかかる。その一瞬、ノーレインは哀れみにも似た視線を彼らに向けた。
そしてノーレインは静かに眼を伏せ――…、
直後、膨大な魔力が膨れ上がった。
冷たい透明な色彩の奔流。
騎士たちは眼を疑って、その中心にいるものを凝視した。
そこにいたのは彼らが殺そうとしていた少年の姿ではなかった。
幼さを感じさせる顔立ちは変わらなかったが、強い意思を称えた瞳は凍るような蒼。
圧倒的な魔力になびく髪は氷のような白銀。
その姿は神話に語られる氷の神・ケルシアのようであった。

「    」

ノーレインが何かを呟く。だが、それが騎士たちの耳に届くことはなかった。
彼らは自分の置かれている状況が理解できないまま、ノーレインの氷の錐に身体を刺貫かれ、絶命していた。
魔力の奔流が収まると同時にノーレインはいつもの姿に戻っていた。
彼自身が意識して髪と瞳の色を変えているわけではなく、加減をせずに氷の魔法を使うときだけそうなってしまうのだ。
それが何故なのかノーレイン自身は知らない。
ただ、尽きる事のないノーレインの魔力と彼の圧倒的な氷の魔法の強さは、それに起因しているものだと予想できた。
詠唱どころか呪文を声にしなくても発動する氷の魔法。
彼に傷をつけることすら出来ない氷の対魔能力。
それは血の系統によらない、ノーレインの異質すぎる力だった。
「お怪我はありませんか、ノーレイン様」
凄惨な光景にも臆することなく、ハーベラはノーレインに尋ねた。
「大丈夫。ハーベラも、平気だったか?」
逆にノーレインが問うとハーベラは満足そうに頷いた。
ハーベラにしてみれば、この主が無事であれば他は別にどうでもいいのだから。
「それにしても不思議です。なぜこの程度の雑魚がノーレイン様の結界を越える事が出来たのか…」
彼女の前ではノーレイン以外の全ての者は雑魚になってしまうのだろうが、ハーベラの疑念はもっともだった。
この騎士達に、ノーレインに結界を解かせるだけの価値があったとはとても思えない。
しかしノーレインは平然として答えた。
「ここへ来たのは、あいつらの力じゃない。何者かが、それを後押ししていた」
「え?!」
「奴らも知らなかったようだが、最初は確かに何者かの介入があった」
彼らがここへ侵入する際に感じたもっと強大な力。それは…。
「それでは、危機はまだ去っていないという事になるのですか」
「そうだな。むしろ…危険性は高まったのかもしれない」
ノーレインがそう口にしたその時。見計らったようなタイミングでその声は響き渡った。
『さすがに、よくわかているようだね…』
不意に聞こえてきた女性の声に、ノーレインは表情を険しくした。
それは実際にここで発せられた言葉ではなく、どこか遠くの地で喋っている言葉が魔力でここまで届いたものだった。
静かな口調の中にも得体の知れない力が感じられ、ノーレインの背に緊張が走った。
『ほんの腕試しのつもりではあったが、正直驚かされた。半竜ごときと侮った事は詫びるとしよう』
「別に、お前に詫びてもらう筋合いの話じゃない」
言い返したのは、半分は自分の緊張を紛らわせるためだった。今までにも色々な相手と対面して来た。自分よりも年嵩の魔導師とも、三倍はありそうな体躯の戦士とも。けれど未だかつてこれほどノーレインを脅かす者はいなかった。
「お前が奴らの頭か」
『いいや、私はただの参謀に過ぎない…今は、まだ。けれど、それがお前の救いにはならないね』
ゆっくりと、その声は姿をとった。ぼんやりと浮かぶ陽炎は、赤き瞳に黒髪の冷たい美貌を称えた女性の姿だった。黒き衣を身に纏ったその姿は底知れない闇を連想させた。
「なっ…何者…!」
ハーベラが驚愕の声を上げた。けれども、それすらも実体ではないことがノーレインにはわかった。
『半竜…いや、氷の仔(リーリアン)と呼ぼうか。幼きお前にはわからぬかも知れぬが、竜の剣はそなたの手にはあまるもの。大人しく身分をわきまえ、ひとりこの地で眠っておればよいものを』
『リーリアン』、黒い女―アズシはノーレインの事をそう呼んだ。
神の仔(リーリアン)とは神の言語で『寵児』を指す。
世界を司る八神に深く愛された稀少な者を指してそう呼ぶのだが、ノーレインにはその自覚はなく、アズシの言葉に込められた真の意味にも気付く事は出来なかった。
「…生憎だが、大人しくなんて性に合わない。俺は俺のやりたいようにやるだけだ」
『ふ…それが、幼い故の愚かしさと言うものだ…。私に歯向かわねば、命を縮める事もなかったろうに』
「…ゥッ!!」
それは、ほんの一瞬だった。アズシが笑ったと思ったその瞬間――漆黒の闇が、その空間を覆った。
『……おや?反応したか。これは…驚いたな』
闇に全てを呑み込まれたかと思えたが、漆黒の闇の中に一筋の光が走り抜けた。
それはアズシの放った闇の魔力から全てを守るためにノーレインが生み出した結界の光だった。
重い闇に押し潰されそうになりながら、ノーレインは歯を食いしばって懸命に結界を支えていた。
それを目にしアズシの表情が初めて歪んだ。
『この私の力に対抗出来たのはお前が初めてだよ、氷の仔。この地上に私に敵うものがいるとは思わなかった。しかし…残念だったね。お前の真の力であれば、私と拮抗できたものを。光の魔法では、いずれ押し潰されてしまうだろう』
赤い唇が残酷に歪む。その言葉がノーレインの耳には届かない事を承知で、アズシは言葉を紡いだ。
『竜の剣は…哀れな竜の娘の怨念は、この私が晴らしてやろう。お前は、そこでお前を慈しんでくれる者たちとおやすみ』
不吉な言葉を言い残し、アズシの姿をした陽炎は掻き消えた。
「ノーレイン様ッ!」
どうする事も出来ずに悲鳴のような声をハーベラは上げた。
恐ろしいほどの闇の魔力の前ではハーベラの存在など赤子も同然だった。
「…ハーベラ…ッ」
一人で闇の魔力と対峙するノーレインは声を出すのも苦しそうだったが、それでも必死に言い募った。
「竜の…剣を…持ってこい!」
「…なっ!!」
「これ…は…もう既に…常人の…ちからじゃ…ない…ッ。こ…れを、払える…のは…あの…剣……だけだ…」
重圧に押されノーレインは一歩退いた。その先にあるのは、冷たい海。
(…!!)
ノーレインの瞳に強い意思が戻った。魔力を超えた意志の力だけで、ノーレインはその一歩を踏み出した。
「ノーレイン様!」
「…はやく、行けっ!!」
この結果の中であれば、魔法を使うことも出来るだろう。闇の魔力の及ばぬ場所まで転移できれば、方法はまだある。
「ですが!ここに、ノーレイン様お一人で残す事など…!」
「いいから行け!」
躊躇うハーベラをノーレインは一喝した。それは、紛れもない彼女の主の顔だった。
「方法は問わない。何をしても、ここに竜の剣を持って来い!」
ノーレインの頭にあったのは、ただ大切なものを守りたいという気持ちだけだった。
その意思を汲み取りハーベラは迷いを捨てた。真っ直ぐな眼差しをノーレインに向けると深く頷いた。
「必ずや、竜の剣をここにお持ちします。ですから、ノーレイン様、どうか負けないで――…」
涙で頬を濡らしハーベラは結界の中から外を目指し飛んだ。緑の光が消えたのを見て、ノーレインは一度だけ瞳を伏せた。
頼りなくて危なっかしい所はあるがノーレインはハーベラを信頼していた。
(頼んだぞ、ハーベラ)
心中で、言えなかった言葉を彼女に贈り、そうしてノーレインはまた闇に向き合った。
大切なものを押し潰す闇。憎悪と失望、死の誘い。
絶対に負けてなるものかとノーレインは結界を支える腕に力を込めた。

竜の大陸の外れで、神の力に等しい魔法の戦いがあったこと。
そして、激しい意思を抱いた女竜が、竜の剣を求めて走り出した事。それを、ミレニア達は知るよしもなかった。
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