竜使の告白で思いがけない真実を知った
ミレニアたち。ハーベラの真摯の思いに
共感したサーザンは、ノーレインを助けに
向かう決意をしたが――…。


せるふぃっしゅ道中記 第3章 氷の少年
5.
覚えているのは、温かい腕と優しい眼差し。
いつも自分のためを思って紡いでくれた言葉。
永遠に忘れるはずがない。
五年前に突然消えてしまった、あの温もりを。
いつも共にあったはずの守人が、消えてしまった日のことを。

「……っ!」
ノーレインの一瞬の気の迷いを感じ取ったかのように、辺りを覆い尽くす圧倒的な闇の力が一気にノーレインの細い両腕に圧し掛かった。
その力に押されて、支えきれずにノーレインは一歩後退した。その途端、踵が海縁の岩を踏み越える。
「っ!!」
その先に広がるのは冷たい海だ。凍るような海の底には、ノーレインがずっと求め続けてきた存在が眠っている。
今ここで負けてしまったらノーレインの小さな身体もろとも闇はすべてを呑みこんでしまうだろう。
守りたかったものも、救いたかったものも全てが無に――帰す。
「駄目…だっ!」
ノーレインは歯を食いしばって闇の魔力を押し返した。白い腕には血管が浮いていた。
魔力だけの勝負ならノーレインがアズシに簡単に負けるはずはないという自負があった。
けれど、あの闇そのもののような女・アズシの残した闇は簡単には消滅せずに繰り返しノーレインを責め苛んだ。
それは魔力だけではない、気力と体力の勝負でもあった。歯を噛み締めすぎて、もはや感覚という感覚は失われていた。
視界など、とうに霞んでいる。瞳に映るのは絶望的な闇だけだ。
(体力がないって…ずっと守竜にも笑われてたっけ…)
眩暈のする意識の中で、ノーレインはぼんやりと姉と言うべき『守人』の姿を思い出した。
今、ノーレインを支えているのは執念とも呼べる気力だけだった。
取り戻したい。
もう一度会いたい。
それが、守竜と誓った約束。
こんな小さな身体で叶えられるはずが無いだろうと、他人は同情の眼差しを向けた。
諦めなさい、と優しい言葉で諭されもした。
それが自分の身に起こった事だったら簡単に言えるはずが無いのに。
けれど、それを笑わなかった者もいる。数少ない仲間と呼べる存在だ。
ナーレーダ――勝気な瞳をした豪胆な女竜。彼女の情熱に何度救われた事だろう。
ハーベラ――どこか頼りない所もあったけれど、誰よりも親身になってくれた。母親代わりであったかもしれない。
でも二人とも、今はここに無い。
「ハー…ベラ」
彼女はノーレインの頼みを聞いてここを飛び出していった。猪突猛進気味な所のある彼女には課した役目は重すぎたはずだ。
もう戻って来ないかもしれない。そんな風に頭の片隅で囁く声がする。
ハーベラが竜の剣を持ち帰らなかったら、この場を切り抜ける事は出来ない。いずれ力尽きて、倒れるだけの運命。
それならいっそ諦めてしまえ、と。
ここで、諦めさえすれば、あとは静かな闇が待っている。その世界で、求めていた安息を手にする事ができる―――…と。
「…違…うっ!!」
媚惑のささやきにノーレインは叫び返した。そんなものは違う。そんなものは、求めているものではないのだと。
「俺は…生きて…願いを叶える…!絶対に、諦めたりなん…か、 しないっ!!」
ざわり、と闇がざわめいた。甘い囁きはアズシの残した罠だった。甘い冷たい囁きの向こうに待ち受ける、死の罠。
しかしそれは獲物を捕らえる事は出来ずに苛立ちを募らせる。闇の魔法の本質は、人の心に救う『負』の感情だ。
恨み、妬み、死を願うほどのどす黒い感情。それを祓えるのは『正』を司る光の魔法。生きることを願う、温かく強い意思だ。
諦めさえしなければ、望みは絶たれないはずだった。例えそれが一縷の望みでしかなくとも。
「俺は…お前なんかに…負けたりしない…!!」
ノーレインの瞳に宿った強烈な意思。それに反発するかのように、一斉に闇の力が襲い掛かった。
黒い濁流が、視界を覆って全てを呑み込む――!
「―――!!」
圧力に負けて、腕が軋んだ。折れる寸前――このままでは力尽きてしまう。こうなったら一か八かだと思った。
ノーレインは両足に力を込めて踏ん張ると、両腕で闇を支えたまま光の魔法の詠唱を始めた。
(闇を払う魔法――破邪)
この状況で発動させてもおそらく闇の力に負けるだろう。だが、ハーベラが間に合えば、奇跡は起こる――!
詠唱によりノーレインの傍らに現れた精霊達は発動の言葉を待った。ノーレインは唇を噛み締めた。
限界が近付いていた。

「――――――ッ!!」

「―――ノーレイン様っ!!」

その瞬間、一筋の強烈な光が見開いたノーレインの目を灼いた。
そして。
ノーレインの前に鮮やかな緑の色彩が広がった。
「!!」
そこに広がるのは、漆黒の闇。恐ろしい冷たさの、絶望の死の闇だった。
その圧倒的な存在にシルンは一瞬身を竦ませた。シルンだけではない、サーザンも、ミレニアでさえもだ。
けれどハーベラだけは違った。その闇をも恐れずに、ただ一人の愛しい主の名を呼んだ。
「ノーレイン様っ!!」
その声に、弾かれたように一人の少年が振り返った。まだ子供の面影を残す細い小さい身体。
しかし、その幼さには不似合いな程の強い瞳。
そして、その瞳が真っ直ぐにシルンの背にした剣を射抜いた。

リュ・ウ・ノ・ツ・ル・ギ。

唇がそう動いたと思った。それを聞く余裕は無かっただろう。シルンが口を開くより、少年の行動は速かった。
どこにそんな力が、と思うほどのスピードで細い腕を伸ばすと、少年はシルンの背から竜の剣を引き抜いた。
戦闘には慣れたはずのシルンでさえ反応できない速さで。それは、もはや神業でしかなかっただろう。
そして少年は吠えるように叫ぶと、渾身の力でそれを振るった。

「――――破邪ッ!! (ディル)」

白い、白い力の奔流。それは、生を望む強い意志の力であり。
溢れ出した莫大な魔力が、一帯を覆う闇を呑み込んだ――…。


「――…」
唸るような勢いで広がった破邪の光があらかた収まった頃、シルンはようやく目を開く事が出来た。
白すぎる光に目を灼かれて、視界がまだぼやけているように感じる。
しかし、あの底知れぬ恐ろしさを感じた闇は微塵も残っていなかった。
ごつごつとした岩場にの向こうに広がるのは青い一面の海。
そして目を反対に向ければ、自分の力の反動を支えきれなかったのか、竜の剣にもたれかかるようにして地面に膝をついている少年の姿があった。
勢いばかりではなく破邪の魔法自体が限界だったのだろう。顔を上げることすら出来ずに荒い呼吸を繰り返している。
(これが…ノーレイン…?)
シルンは、なんだか狐につままれたような気分だった。あれだけ自分たちを騒がせ脅かした相手が、こんな子供だったというのだろうか…?
(――いや、そうじゃない)
見た目は随分幼く見えるが、あの咄嗟の動きは普通の子供のものではなかった。
それに、今この一帯を浄化した魔法。その威力は、ミレニアが扱うようなレベルの魔法じゃない。
一流の魔導師や、下手をすれば神官ですら凌ぐ威力の魔法だった。
見た目で判断してはいけない。ノーレインは一筋縄ではいかないだろう。
ごくり、とシルンが唾を呑み込んだその時、視界の隅で赤い影が動いた。
シルンはとっさに声をかけようとしたが、それよりもサーザンの方が速かった。
ずかずかと遠慮せずにノーレインの前まで歩いていくときっぱりとした強い口調でノーレインに対して言い放った。
「ちょっと!あたしはまだあなたに協力するとは言ってないのに!!勝手にオトウサマの剣使わないで!!」
「…!!」
サーザンらしいと言えばこの上なくにサーザンらしい率直な物言いだった。
シルンは驚かずにはいられなかったが、それ以上に相手の――ノーレインの方が驚いたようだった。
突然怒鳴り込んできた少女を、不思議なものでも見るように眺めている。
「…御父様?」
「時間がないってあの人が言うから、あたしたち来たのよ!それなのに、こんな風に勝手するの、ずるい!!」
あの人、と指差された方向では、ハーベラが安堵の表情を浮かべてノーレインに見惚れていた。
ともかく危機を脱することが出来たことで、緊張の糸が切れてしまったようだ。
シルンには異種異様な光景にも映ったが、ノーレインは見慣れているらしい。ハーベラには構うことなくサーザンに向き直った。
「ハーベラが?」
「そう!話を聞くって言ったの。それから決めるって。あたし、あなたたちを信じたのに…どうしてこんな風に裏切るの!?」
サーザンの剣幕にノーレインは押されていたようだったが、ハーベラと残りの面々の顔を順に見比べて、何となく事態を察したようだった。聡明そうな瞳が、正面で睨み据えるサーザンの方を真っ直ぐに見た。
「…別に裏切るとか、そんなつもりじゃなかった。ただ、あの時はそうするしか助かる道が無いと思ったから、身体が勝手に動いた。悪かった」
悪かった。素直に謝って、ノーレインは杖代わりにしていた剣をサーザンにつき返した。
「…話しても無駄なら実力行使するかもしれないけど…出来ればそうしたくはないから」
「……」
どこか戸惑った様子ながらも、サーザンは頷くとそれを受け取った。
(…ちょっと待て)
シルンは目にしている光景を信じてはいけないような気がした。怒ったサーザンに対して正直に謝ったノーレイン。
その姿はミレニアや竜使などよりも、至極まともに見えたからだ。
(…もしかしなくても…これは…)
自分の思い違いであって欲しい。けれどその願いはおそらく叶わないだろう。
シルンが小さく溜息を吐いたとき、その横からミレニアがずずいと進み出た。
「…って、何よ。なにがどーなってんの?ちゃんと説明しなさいよ!!」
一方的に放って置かれたことが腹立たしいらしく、怒りを隠そうともせずにミレニアはノーレインとサーザンの前に仁王立ちになると、鋭い目つきで二人を睨みつけた。その姿は、いかにも『荒くれ』と言わんばかり。
(…どー見ても、俺たちのほうが悪役だよな…)
気のせいなんかではない。きっと、世間一般的に見ても、ノーレインよりもシルン達の方が道を踏み誤ってきたんだろう。
それを完全に認識して、シルンは今度は大きく溜息を吐いた。
出来る事なら、ここにはいないあの『竜使』さまに、全ての罪を被せてしまいたいと思わずにはいられなかった。


「…俺が、シュトラル=セレナに竜の剣を貸して欲しいと言ったのは本当だ。でも、迷惑をかけるつもりなんかなかった。どうしても出来ないと言われたら、俺は他の方法を探すつもりだった」
まずは平和的に行こうと車座に座って、ノーレインは皆に聞こえるように『事件が起こった理由』を語りだした。
「本当にぃ?後でなら何とも言えるんじゃないの?」
「ミレニア、茶化さない」
「何よ、サラちゃんまでそんなガキの肩持っちゃって。最近私に冷たいんじゃないの?」
「そりゃ…元からだ」
「…静かにしていただけます?」
ミレニアとシルンのくだらない口論にハーベラが恐ろしい形相を向けた。シルンにはどうも彼女は二重人格のように思えた。
「まぁ、別に信じてもいいけどよ、その割には、船沈めよーとか無茶したんじゃねーか?」
ターヴィの言い分ももっともである。
そもそもあのナーレーダとの船上の一件が、ノーレインを敵として位置付けてしまったのだから。
「まぁ、ナーレーダに行き過ぎた所があったのは認めますけど。でも、『渡せない』ではなく『貸す』と言われたのに、横から掻っ攫われたのでは頭に血だって上ります」
「あんたねぇ、そーゆーコトを正当化してんじゃないわよ」
「事実ですもの」
「ハーベラ、やめろ」
反論に牙を向く部下を、ノーレインがたしなめた。小さいながらも威厳はある。
「お前たちを疑ったのは俺の責任だ。シュトラルに返せない借りを作ったのも事実だ。それは曲げようが無い。申し開きの余地も無い。でも…それでも言わせて欲しい。俺に竜の剣を貸して欲しい。それが…唯一無二の、俺の望みを果たすものだから」
「望み…?」
「ああ、望みだ」
そう言って、ノーレインは海へと目を向けた。その途端に、瞳に帯びる光の色ががらりと変わる。
今にも泣き出すのではないかと思うほど、見ているほうが辛くなるような切なげな眼差し。
その面持ちのままで、ノーレインは静かに告げた。
「この、海の底に二人の者たちが眠っているんだ」
「…ふたりの者?」
「…そう。二人は、死んでいるんじゃない。眠っているだけだ。期限の無い、長い時を…。でも、俺はそれを待つつもりなんかない」
そう言って、ノーレインはすうっと目を細めた。その表情が酷く寂しそうに見えた。
その二人が誰であるのか、シルンはそれで何となくわかったような気がした。
自分や…おそらくターヴィたちよりも幼く見えるこの少年が、何故一人でいるのか。
そして、何を犠牲にしてでも、この少年が『竜の剣』を欲した理由が。
「彼らを目覚めさせるには、どうしても『竜の剣』の力が必要だった。五年だ。それだけの時間をかけて…ようやく竜の剣を見つけた」
ノーレインの瞳が、サーザンが両腕で抱える剣に向けられる。その視線に応じるように、サーザンが尋ねた。
「そうまでして会いたいと思ったのは…誰なの?」
ノーレインが真っ直ぐにサーザンを見た。そしてはっきりとした口調で継げた。

「両親だ、俺の」


BACK MENU NEXT

.
.
.
.
.
.
.