わが戦記(3)

フイリッピン ルソン島戦線(1)

 私の最初の任務はケソン市で南方軍総司令部、参謀部の大防空壕を築造することであつた。ケソン市はマニラの北方7キロ、フイリピンの首都である。

 私は中島中隊の第1小隊長として赴任した。第2、第3小隊長は大畑、豊田である。ケソンは平地、地質は硬岩、パシグ川のそばにある。私は坑道、爆破の専門家である。先ず兵隊の教育から始めた。

 南方軍総司令官、寺内寿一元帥は、当時サイゴンからケソンへ移つて居られた。中島中尉と私は軍司令部から呼ばれて、寺内元帥の前に座り、防空壕の計画、工程等を説明した。工事は岩盤が硬いため仲々進まない。私は坑道の中に入り手本として、12ケのダイナマイト穴の導火線に、たばこで次々火をつけ、「退避」の仕方もやってみせた。

 夜、空襲警報とともに敵機の爆撃が始まった。高射砲の迎撃がまるで夜空の花火のようだ。日本軍の戦闘機が迎え撃ち米戦闘機と空中戦になった。友軍機が煙を吐いて落ちるのが見えた。私と大畑は、ふんどし一つで眺めていて翌日中隊長から叱られた。

 と或る日、軍司令部の前を通つたら、玄関に目の大きな偉丈夫が立っておられた。山下奉文大将である。「あ、あれがマライの虎だ」と直ぐ分った。山下大将は14方面軍司令官として、フイリッピン全島の指揮をとりにやってこられた。

アメリカ軍はサイパン、パラオを攻略し、レイテ、サマル島を狙った。寺内元帥は再びサイゴンへ帰えられた。我が築城部は制空制海権が危うい現在船でサイゴンへ渡ることは出来ない。フイリッピンに残ることになり、14方面軍に編入された。

                

もうマニラもケソンも軍司令部を置くには相応しくないのだろう、ルソン島北部の山岳地帯へ転進することになった。バギオを目指した。バギオは日本の軽井沢みたいな処で避暑地、大統領官邸もあった。軍用車でロザリオまで行き、そこに小休止した。椰子の木の下に商店が5,6軒、日本の屋台みたいな小屋が並んでいた。売っているものと言えばモンキーバナナ、パパイヤ、手造りの葉巻ぐらいである。私は黒砂糖を買った。

ロザリオからは上り坂、ベンゲット道路を通つてバギオまで行った。途中で在留邦人の方にお会いした。バギオ北方、トリニダットの人である。後で大変お世話になった。

昭和20年の年が明け私は24歳になった。

兵隊を連れバギオからリンガエン湾に通じる道路の補修に行った。何回目だったか、下方から沢山の兵隊が道路を続々と上つてきた。アメリカ軍の大部隊が、艦砲射撃と共に、上陸用舟艇でリンガエン湾に上陸して来たとのことである。リンガエン湾はバギオから40キロしか離れていない

ホームへ 前ページへ 次ページへ