わが戦記(5)

山岳地帯での戦闘(1)

 軍司令部はバギオから山岳地帯へ転進することになった。わが部隊は先遣隊となり、私は部隊の尖兵小隊長となった。部隊の先頭トラックに乗った。夜間である。道路は急峻な山地を縫うつずら折、下は千尋の谷、私は運転席、後ろの荷台に30人位の兵隊が乗った。敵を捜索しながら進んだ。後ろから「ぱっかぱっか」乗馬姿の中佐が来た。「先頭車両遅いぞ」「分かりました」速度を出させた。その途端体がふわっと浮いた。「あ、踏み外した」車両は谷底へ転げ出した。1回,2回,3回4回、数えていた。「グアーン」車の外へ投げ出された。「あ、死んだ」「しかしおかしいぞ、死んだと思うなんて」体がしびれ下半身がきかない。横では「ウーウー」とうめき声が聞こえる。私の上官志岐少佐を先頭に救助隊が命綱で降りてきた。私達はロープで引き上げられた。「寒い」、道路脇で焚き火をした。その火をめがけて敵が撃ってきた。

 3名亡くなり軽重負傷者多数、私は重傷者、他の重傷者6人と共に、川水と芋畑のある谷に下ろされ、傷がよくなるのを待つことになった。傷のよくなった兵隊は部隊の後を追わせた。しかし途中で敵に襲われ、再び帰って来る者もいた。

 私は右脚膝をやられていた。(いまでも大きな傷跡がある)傷がよくなって1人、敵中の人影もない道路を歩いて部隊の後を追った。右手に拳銃、左手に軍刀である。何キロ位歩いたろうか、藪中から歩哨に呼びとめられた。我が隊の歩哨であった。

 そこで又野営することになった。私の住まいを作ってくれた。屋根は木の葉っぱ、床は木の小枝、広さ2畳ばかり、寝ると背中が痛い。がまんがまん、極楽だ。食べ物はさつま芋を溶かしたぜんざい、付近に生えている春菊をフランス菊と名付け喜んで食べた。

 命令が来て、ボントックへ転進することにはった。バナウエ、ポリス峠、タルピンを経てボントックを目指した。途中で機関銃の掃射を受けた。く字形の尖った地点に敵が機関銃座を設け、その点につずく直線道路をやってくる日本軍を射撃するのである。直ぐに伏せをした。私は双眼鏡を取り出し敵を見ようとした。横にいたニューギニヤ戦線から来た兵隊が「いま頭を上げると危ないです」と言った。彼の言葉に従うことにした。行軍途中マラリヤに罹った。40度以上の高熱が出た。岐阜の塚本上等兵が看病して下さった。(復員後ご本人からきいた。感謝の外ない)

 我々は工兵であるから、器材、爆薬を持っている。部隊はその輸送のため、何回も大八車と警備兵を派遣し、この道を往復させた。そしてこの地点で又やられた。田村少尉もここで戦死した。敵の機関銃座は後方に大部隊がいて、その出陣地らしかった。後に私は隊長として、この敵部隊と対戦することになる。

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