わが戦記(8)

山岳地帯での戦闘(4)

 わが大隊は敵(米比軍)と対峙した。彼我の間は低い谷を挟んでかなり離れている。敵は機関銃、自動小銃で絶え間なく撃ってくる。こちらは三八式歩兵銃で時折応戦する。一人50発の弾薬しか持っていない。大切に使用しなければならない。

 敵の砲弾が頭上をとんでいく。「ヒューンダーン、ヒューンダーン」思わず首をすくめる。何処か近くが攻撃されているようだ。

 上空には敵の哨戒機が「ブルーン、ブルーン」旋回しつつ日本軍を見張っている。動けば直ぐ戦闘機がやってきて機銃掃射をやる。昼間はあまり動けない。

 輸送機による敵の食料補給が始まった。落下傘による投下である。風向きによっては彼我戦闘中の中間に落ちてくる。夜になって兵隊が拾つて来た。私も貰った。我々はレーションと呼んでいたが弁当である。 Breakfast、lunch等と記入してある。彼らは朝、昼、晩三食とも投下するのだ。中を開いて見たらサンドイッチ、干し葡萄、煙草のcamel等が入っていた。

 日本軍の食料のことを書かなければならない。内地からの補給が途絶え現地徴達となった。しかしこれも底をついた。我が隊は危険だが遠方へ行けばまだ芋が少しはある。蛇も、鼠も、おたまじゃくしも食べた。蛇は陸うなぎと言っていたが骨が多くて美味くなかった。芋の葉、水田の芹、そしてたまに見つかるドジョウ等は最高のご馳走であった。「我が隊はフイリッピンの他の部隊に比べたらまだ恵まれている方なのだろう」と思った。 

 道路を通ると、他部隊の知らない兵隊が2,3百メートル毎に死んでいた。餓え死である。ある者は小さな天幕で飯盒に口をつけたまま、ある者は谷川の水に口をやったまま。 4,5日して再びこの道を通ったら白骨となっていた。

 我が隊にも大腸炎が流行し数人が罹った。下痢がひどい。穴を掘った便所に駆け込むのを見たら、もう翌朝には死んでいた。叫びもせず黙って死んでいった。

 私は第1中隊の第1小隊長、第2、3,4小隊長は氷川、大畑、豊田少尉、みな工兵学校からの同期生、二十四、五歳のバリバリである。

 隣の第2中隊が斬り込みにいって全滅した。我々の中隊でも第4小隊が斬り込みにいき全滅し友人の豊田少尉は戦死した。第3小隊も斬り込みにいったが大半やられて帰ってきた。後は私と氷川の小隊しか残っていない。しかし両方とも半数に減っている

ホームへ 前ページへ 次ページへ