←前のページ トップページ↑ 次のページ→

静岡県掛川市

三井山砦

 
2013年12月30日

高天神城跡より南へ約3qの掛川市大坂に所在する。ここは小笠山丘陵が南へ張り出す台地の先端部にあたり、西及び北側は尾根続きとなっているが、東には小笠平野が一望でき、南には遠州灘を望む地形である。この周辺には、縄文時代に遺跡や古墳時代の円墳などが確認されている。
築城は天正7(1579)年10月で、酒井与四郎重忠が守備したといわれているが、前年から三井山周辺で戦いがあったことや縄張り配置等の特徴などから、最初の築城はさらにさかのぼることも考えられる。しかし、茶畑の開墾等により一部削平されており、遺構の残存状態は悪く、標柱・説明板等が設置されているのみである。
(パンフレット資料より)

城址は大東町三井と南大坂との間にあり、小笠山山塊東南端の枝尾根先端部の山で、高天神城の南方2.6qの地点にあたる。隣接する三井山・山王山・宗兵衛山を総称して三峯山という。三井山は、往古、泉の湧く三つの井戸があったことから山名となり、南方は谷間が多く険しい。天正7年10月、高天神城包囲攻撃のため徳川家康の構築した付城、いわゆる「六砦」の一つで、酒井与四郎重忠が守備した。六砦の中ではその規模も大きく、また、戦略的意味も重要であった。大東町土方・中、小笠原方面まで一望でき、今も曲輪や大きな堀切などの遺構がある。
(日本城郭大系より)

 


 
2010年01月10日

高天神城跡より南へ約3qの掛川市大坂に所在する。ここは小笠山丘陵が南へ張り出す台地の先端部にあたり、西及び北側は尾根続きとなっているが、東には小笠平野が一望でき、南には遠州灘を望む地形である。この周辺には、縄文時代に遺跡や古墳時代の円墳などが確認されている。
築城は天正7(1579)年10月で、酒井与四郎重忠が守備したといわれているが、前年から三井山周辺で戦いがあったことや縄張り配置等の特徴などから、最初の築城はさらにさかのぼることも考えられる。しかし、茶畑の開墾等により一部削平されており、遺構の残存状態は悪く、標柱・説明板等が設置されているのみである。
(パンフレット資料より)

城址は大東町三井と南大坂との間にあり、小笠山山塊東南端の枝尾根先端部の山で、高天神城の南方2.6qの地点にあたる。隣接する三井山・山王山・宗兵衛山を総称して三峯山という。三井山は、往古、泉の湧く三つの井戸があったことから山名となり、南方は谷間が多く険しい。天正7年10月、高天神城包囲攻撃のため徳川家康の構築した付城、いわゆる「六砦」の一つで、酒井与四郎重忠が守備した。六砦の中ではその規模も大きく、また、戦略的意味も重要であった。大東町土方・中、小笠原方面まで一望でき、今も曲輪や大きな堀切などの遺構がある。
(日本城郭大系より)

三井山砦は徳川家康が高天神城を攻略するために築かせた6つの砦の一つです。高天神城攻略のための拠点は横須賀城ですが更に高天神城と駿河との連絡を遮断するために築かれたのが6つの砦なのだと思います。高天神城の東側を取り囲むように砦が築かれ、そのうち三井山砦は一番南側に位置しちょうど高天神城の真南の方向です。大浜公園の中にあるとのことでしたが目的地は貞永寺にしました。というのは掛川市大東北公民館の前にあった大きな史跡案内板によると三井山砦は貞永寺と一緒に紹介されていたからです。貞永寺に行ってみるとその裏側に大浜公園というのがあったので登って行きました。しかし三井山砦の場所は分からず再び貞永寺に戻ってきました。周辺で色々な人に場所を確認した結果、大浜公園から下って行く途中に左側に見える橋を渡って行くと三井山に行かれるとのことでした。ということで再び大浜公園に行って下る途中に左側にある橋を見つけてそこに車を置いて橋まで登り、橋を渡ってしばらく登ると三井山砦がありました。他にも供養塔などもありました。奥に進んでみると帯曲輪のような遺構も確認できました。

 


獅子ヶ鼻砦
小笠山砦
能ヶ坂砦
火ヶ峰砦
中村城山砦
横須賀城
高天神城
 

 
←前のページ トップページ↑ 次のページ→