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静岡県磐田市

三ヶ野坂古戦場

 
2013年12月30日

戦国時代のはじめ頃は、遠江地方は駿河の今川氏の支配下におさめられていたが、今川氏滅亡後は今川氏に代って家康によって治められた。ところが、元亀3(1572)年上洛を目指す甲斐の武田信玄が遠江へ進出し、木原に陣を布いた。これを迎え撃つため徳川勢は浜松城を出て、三ヶ野・見付宿・一言坂と戦った。この大日堂の高台には、本多平八郎物見の松と伝えられる大松が残されている。この丘陵に立てば、太田川から遠く袋井まで一望でき、本多平八郎の物見もさぞやとうなずける戦国ロマンがただよう。
(看板資料より)

 



2005年01月30日

古戦場 大日堂

戦国時代のはじめ頃は、遠江地方は駿河の今川氏の支配下におさめられていたが、今川氏滅亡後は今川氏に代って家康によって治められた。ところが、元亀3(1572)年上洛を目指す甲斐の武田信玄が遠江へ進出し、木原に陣を布いた。これを迎え撃つため徳川勢は浜松城を出て、三ヶ野・見付宿・一言坂と戦った。この大日堂の高台には、本多平八郎物見の松と伝えられる大松が残されている。この丘陵に立てば、太田川から遠く袋井まで一望でき、本多平八郎の物見もさぞやとうなずける戦国ロマンがただよう。
(看板資料より)

三ヶ野坂の七つ道
南北朝時代に宗良親王がその心境を三ヶ野橋に託してここを通ったときの歌が残されているようにこの辺りは歴史や地形上からも東西の交通の要衝であった。また武田軍の遠州侵攻のときは古戦場となった。
旧東海道の松並木・車井戸跡・鎌田薬師堂道標・立場茶屋跡等を見て隣接の桶ヶ谷沼・鶴ヶ池を廻る家族向けのハイキングコースとして好評を博している。
東から三ヶ野橋を西進すると、標高38メートルある大日山の急斜面を這うように江戸時代の旧東海道と交差する。そこを200メートル西進して、北向きに明治27年築造のなだらかな坂道を降りる。ここは大正6年築造の道路と交差していて、その横は昭和30年築造の国道1号線となる。交通量の増加で磐田バイパスが計画されて立体交差の袴道橋が平成2年に完成した。国道の地下道を抜けると北側は桶ヶ谷沼に続く。ここから見付に抜ける間道は、俗に言う質屋通いの隠れ道であった。時代別に順次作られた七つの道が1ヶ所にまとまって見られるのは珍しい。
(看板資料より)

武田軍は、青崩峠及び兵越峠を越えて、犬居城から只来、飯田などの城を屠った後に木原というところに陣を敷いたらしい。一方徳川軍は大久保忠世、本多忠勝、内藤信成ら四千の軍が見付に布陣し、内藤信成の斥候隊が大日堂に向った際に武田方との衝突が起き、この時の戦いが三ヶ野坂の戦いと言われているという話もあるらしい。その後一言坂での戦いを経て徳川軍はいったん浜松城に戻るが、武田軍は二俣城攻略のため進路を再び北に向けることになる。
大日堂の高台にはお堂といくつかの石碑や墓碑のようなものもあった。高台に立ってみると確かに見晴らしが良く、これなら本多平八郎も十分物見ができたのではないかと思われる。尚、「本多平八郎物見の松と伝えられる大松」は現在は既に無くなっているらしい。


一言坂の戦跡
挑燈野
旧見付学校

 

 
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