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静岡県掛川市

小笠山砦

 
2013年12月30日

小笠山山塊の中心部が小笠山砦で、掛川・袋井両市と大東町との境に位置する。小笠山砦は、徳川家康が高天神城包囲攻撃のため構えた六砦の一つであり、『小笠郡誌』小笠神社の項に、家康がここに陣を数旬にわたって布いたことから、村民が離散し、社も大いに荒らされ、古文書や旧記などすべて亡失したと伝えている。現在、曲輪・堀切などの遺構をよく残しており、小笠神社西側尾根続きの東南から北西に、約100mの細長い地域を砦域とし、本郭ともいうべき部分は笹ヶ峰御殿跡に相当し南北の幅は約17-20m、東西60mで、南北両側は垂直に切り立つ崖となっている。最高部は物見台を思わせ、堀切・腰曲輪を付けて守られ、その西側には若干の平場を設けて兵士の駐屯を可能にし、さらにその平場の西側尾根続きにある高所「芝神童笛吹丘」、「多聞神社」のある地点も物見台として用い、笠ヶ峰の死角を補ったものと推測される。
(日本城郭大系より)

高天神城跡より北方約4qの掛川市入山瀬に所在する、標高約250mの小笠山山頂付近に築かれた。
徳川家康が永禄11(1568)年に掛川城の今川氏真を攻めた時に陣をおき笹ヶ峰御殿という名も残されており、高天神城攻めに際しては再びここに砦を築いた。ここは、北には東海道と掛川城、東から南には牧之原台地から遠州灘まで一望することができる。
遺構は、各曲輪や横堀・土塁などが残存している。現在は小笠神社等が建てられており、また、野鳥の観察やハイキングコースにもなっている。
(パンフレット資料より)


笹峰御殿跡

徳川家康が永禄12(1569)年掛川城の今川氏真を、又、天正9(1581)年に高天神城を攻めた時に家康の陣屋があったところで、御殿は後に取り拂われた。家康は浜松からここに来たのである。
(看板資料より)


小笠神社

御祭神
 事解男尊(ことさかおのみこと)
 伊弉册尊(いさなのみこと)
 速玉男尊(はやたまおのみこと)
由緒
当神社は人皇第42代文武天皇の御勅願により大宝2(703)年3月18日紀州熊野三社を勧請した。
その由来は、藤原鎌足公の孫の宮子姫が御后になられたが、御子なきを歎き遊はされ紀州熊野社に詣で、皇子誕生ましまさは東国に三宇の社を建てまさんと御祈願あらせられ、無事皇子を誕生なされた。後の聖武天皇である。
御祈願成就により、公家奥野惟吉郷を東国に遣し宮地を檢分せしめられ、横須賀を本宮の地高松を新宮小笠獄を那智の宮地小笠神社と定めて御遷宮あらせられた。
御例祭 11月3日
(看板資料より)

 


 
2010年01月10日

小笠山山塊の中心部が小笠山砦で、掛川・袋井両市と大東町との境に位置する。小笠山砦は、徳川家康が高天神城包囲攻撃のため構えた六砦の一つであり、『小笠郡誌』小笠神社の項に、家康がここに陣を数旬にわたって布いたことから、村民が離散し、社も大いに荒らされ、古文書や旧記などすべて亡失したと伝えている。現在、曲輪・堀切などの遺構をよく残しており、小笠神社西側尾根続きの東南から北西に、約100mの細長い地域を砦域とし、本郭ともいうべき部分は笹ヶ峰御殿跡に相当し南北の幅は約17-20m、東西60mで、南北両側は垂直に切り立つ崖となっている。最高部は物見台を思わせ、堀切・腰曲輪を付けて守られ、その西側には若干の平場を設けて兵士の駐屯を可能にし、さらにその平場の西側尾根続きにある高所「芝神童笛吹丘」、「多聞神社」のある地点も物見台として用い、笠ヶ峰の死角を補ったものと推測される。
(日本城郭大系より)

高天神城跡より北方約4qの掛川市入山瀬に所在する、標高約250mの小笠山山頂付近に築かれた。
徳川家康が永禄11(1568)年に掛川城の今川氏真を攻めた時に陣をおき笹ヶ峰御殿という名も残されており、高天神城攻めに際しては再びここに砦を築いた。ここは、北には東海道と掛川城、東から南には牧之原台地から遠州灘まで一望することができる。
遺構は、各曲輪や横堀・土塁などが残存している。現在は小笠神社等が建てられており、また、野鳥の観察やハイキングコースにもなっている。
(パンフレット資料より)

小笠山砦は徳川家康が高天神城を攻略するために築かせた6つの砦の一つです。高天神城攻略のための拠点は横須賀城ですが更に高天神城と駿河との連絡を遮断するために築かれたのが6つの砦なのだと思います。高天神城の東側を取り囲むように砦が築かれ、そのうち小笠山砦は一番北側に位置する砦です。東側から小笠神社を目指して行きました。車でかなり高所まで登れましたが、駐車場からは徒歩になります。神社までは15分と書かれていましたがそんなにかかりませんでした。小笠神社にはきれいなトイレもありました。また南の方を見るとなんと遠州灘まで一望できました。残念ながら高天神城がどれなのかは分かりませんでした。神社を超えて更に進んで行くと小笠山砦と書かれた棒杭がありそこはちょうど空堀の遺構が残っていました。そのすぐ先には家康が陣を置いたという笹ヶ峰御殿跡がありました。その先の少し高くなっている所からは北側の景色が一望できました。更に進むと多聞神社があり、その先には小笠神社の反対側の入口がありました。そこまで行って再び戻ってきました。


笹峰御殿跡

徳川家康が永禄12(1569)年掛川城の今川氏真を、又、天正9(1581)年に高天神城を攻めた時に家康の陣屋があったところで、御殿は後に取り拂われた。家康は浜松からここに来たのである。
(看板資料より)


小笠神社

御祭神
 事解男尊(ことさかおのみこと)
 伊弉册尊(いさなのみこと)
 速玉男尊(はやたまおのみこと)
由緒
当神社は人皇第42代文武天皇の御勅願により大宝2(703)年3月18日紀州熊野三社を勧請した。
その由来は、藤原鎌足公の孫の宮子姫が御后になられたが、御子なきを歎き遊はされ紀州熊野社に詣で、皇子誕生ましまさは東国に三宇の社を建てまさんと御祈願あらせられ、無事皇子を誕生なされた。後の聖武天皇である。
御祈願成就により、公家奥野惟吉郷を東国に遣し宮地を檢分せしめられ、横須賀を本宮の地高松を新宮小笠獄を那智の宮地小笠神社と定めて御遷宮あらせられた。
御例祭 11月3日
(看板資料より)


多聞神社

いいつたえによると徳川時代のはじめに浅羽村の、芝の河村平馬の子、小大夫は笛を吹くことが、上手で15の時に小笠山に登ったままわからなくなった。
心配した母に夢で小笠山の多聞天となると告げた。
病人があると夢で、薬を教えききめがあるので、ここに祀ったといわれる。
(看板資料より)

 


獅子ヶ鼻砦
能ヶ坂砦
三井山砦
火ヶ峰砦
中村城山砦
横須賀城
高天神城
 

 
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