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長野県長野市

霊山寺

2016年05月01日

花岡平と霊山寺
花岡平には善光寺縁起書や信濃砂々礼石などの古文書によると、今から1300年ほど前、善光寺如来が安置されていました。後に参詣人の便の為に現在の場所に移されました。
霊山寺は上水内郡信濃町霊山寺山麓に在った大寺でしたが、戦国時代戦火に遭い長野市長沼の末寺へ移りました。その後、善光寺奥の院として再興されました。山内には大文殊菩薩を奉ってある本堂をはじめ、本田善光卿の墳墓瓢塚、鎌倉時代の善光寺信者が建てた五輪塔群や川中島合戦勇士の首塚、裏山には上杉謙信物見岩、旭山観音のご兄弟仏である岩井堂観世音等があり名勝参詣の地でもあります。
(看板資料より)


川中島合戦勇士の首塚
霊山寺中興の祖義吽和尚の代にこの地を整地したところ、首だけの白骨の化石がたくさん発掘され鑑定した結果、この大峯山一帯は川中島合戦の時、上杉方陣地であり、合戦で討ち取った武田方の武将の首を検分し、論功定めを行なった処であることがわかり、戦士等の勇魂を慰める為にここに塚を築いて白骨を納めたものです。
(看板資料より)


 



2005年09月24日

花岡平と霊山寺
花岡平には善光寺縁起書や信濃砂々礼石などの古文書によると、今から1300年ほど前、善光寺如来が安置されていました。後に参詣人の便の為に現在の場所に移されました。
霊山寺は上水内郡信濃町霊山寺山麓に在った大寺でしたが、戦国時代戦火に遭い長野市長沼の末寺へ移りました。その後、善光寺奥の院として再興されました。山内には大文殊菩薩を奉ってある本堂をはじめ、本田善光卿の墳墓瓢塚、鎌倉時代の善光寺信者が建てた五輪塔群や川中島合戦勇士の首塚、裏山には上杉謙信物見岩、旭山観音のご兄弟仏である岩井堂観世音等があり名勝参詣の地でもあります。
(看板資料より)


川中島合戦勇士の首塚
霊山寺中興の祖義吽和尚の代にこの地を整地したところ、首だけの白骨の化石がたくさん発掘され鑑定した結果、この大峯山一帯は川中島合戦の時、上杉方陣地であり、合戦で討ち取った武田方の武将の首を検分し、論功定めを行なった処であることがわかり、戦士等の勇魂を慰める為にここに塚を築いて白骨を納めたものです。
(看板資料より)

川中島合戦勇士の首塚


本田善光卿の墳墓瓢塚


五輪塔群


花岡平

大峰山の中腹に位置し、眺めが良いところから桜坂、雲上台、歌ヶ丘、しぐれ沢、白雲台、往生寺、夕陽ヶ丘と共に展望道路八景と称されています。草創時代長い間善光寺があった地とも伝えられ、また数多くの五輪塔が発掘されたところから五輪平とも呼ばれています。付近には、霊山寺(真言宗)、弘法大師の遺蹟岩井堂、ならびに県内殉職警察官の慰霊碑、消防関係者顕彰の碑などがあります。また、裏手には川中島古戦場の謙信物見の岩が頭上に望まれます。
一帯は自然休養林として一般に開放され、幾つかの遊歩道が整備されており、物見の岩遊歩道の登り口にもなっています。
(看板資料より)



七清水の紹介
一盃清水
霊山寺より約300m奥の謙信物見の岩の下に岩井堂あり弘法大師が修行中杖で地面をついたら清水が湧き出たといい、弘法大師が好んで硯の水に用いられました。のちに上杉謙信が大峰山布陣の際に飲み水にしたとも伝えられ別名上杉の御膳水とも呼ばれました。
(看板資料より)

霊山寺から善光寺平を望む

以前、謙信物見の岩に来たときに、付近に霊山寺というお寺があって、そこには川中島合戦の際の兵士の首塚があるという案内を読んでいたのですが、今回その霊山寺に寄りました。今回の目的である川中島合戦勇士の首塚は本堂の裏にありました。小さな小山のような感じに盛り上がっており、その右側には「川中島戦士之首塚」の碑があり、更にいくつかの祠などもありました。川中島古戦場にも首塚がありましたが、こちらの首塚は上杉方が捕えた武田方の兵士の首を埋めたもののようです。首塚から墓地の一番上まで登って行くと上の写真のように善光寺平の素晴らしい景色を見渡すことができます。

 

 
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