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千葉県旭市

東漸寺


2007年12月23日

カーナビで旭市の東漸寺を検索したら見つかったので目的地に設定して現地に向いました。木曽義昌公史跡公園から線路を越えて行ったところでした。最初は場所が分かりづらくなかなかたどり着けなかったのですが大きな駐車場がありました。雨が降っていたので傘をさして参道を歩きました。正面本堂に向って歩いて行くと途中いろいろなところに木曽義昌公云々と書かれたものがありました。本堂から向って右側の方に大きな供養塔がありました。そちらの方に行ってみると本当に立派な供養塔でした。中央に五輪塔、両脇には宝篋印塔がありました。その左側には遺徳碑もありました。本堂の方に戻ってきてからお寺を訪ねてみました。すると住職さんが快く本堂に招き入れてくれました。

木曽義昌公・真理姫の位牌

最初に木曽義昌公及び奥方である真理姫の位牌を見せてもらいました。真理姫は木曽で亡くなっているが位牌はここにあるとのことでした。東漸寺は館跡ではなく木曽家の菩提寺であるとのことでした。その後位牌の写真も撮影させてもらいました。本堂はつい最近整備しなおしたとのことでした。旭市では木曽義昌公は多くの人が知っているとのことで、地元では木曽義昌公のことを木曽様と呼んでいるとのことでした。木曽義昌公は椿の海に水葬されたとのことですが、住職の話によれば、そういう話が今日に伝わっているのは武田信玄が諏訪湖に水葬されたという伝説に関係があるのではないかとのことでした。ちなみに椿の海は寛文10(1670)年に干拓されて消滅している。武田、徳川、織田などの大国に囲まれ、しかも豊富な森林資源を有していた木曽は生き抜いていくために武田の傘下に入り、その後織田について武田を滅ぼすきっかけを作り、その後深志城も与えられ10万石となるが、その後すぐに織田信長も本能寺で死ぬと、今度は徳川家康に従った。しかし今度は新たに興ってきた豊臣秀吉に運命をかけることにした。天正18(1590)年に豊臣秀吉は小田原の北条氏を滅ぼした後、徳川家康に関東を与えた。このとき信濃の諸将は徳川家康の配下に組み入れられ、木曽氏は下総国網戸(阿知戸)1万石に配置換えとなりこの地に来ることになったとのことでした。秀吉が木曽の森林資源に目をつけて木曽氏から取りあげて石川光吉に与えたということですが、徳川家康としても最初の誓詞を反古にされたことや、小田原城攻めに木曽義昌が病気と称して参加しなかったことなどが秀吉や家康の心証を悪くしたのではないかとのことでした。
木曽義昌の後は嫡男である木曽義利が継いだが、木曽から出てきて不満が多かったせいか粗暴で家臣の信頼が薄く、叔父義豊を殺害したり、愛妾の不貞を怒って惨殺するなどして慶長5(1600)年に木曽氏は改易されて義利は追放処分となった。木曽義利はその後どうなったのかは定かではないが、伊予国松山城主蒲生忠知に仕えたという話もあるとのことでした。木曽義昌夫人である真理姫は三男義一(義道)を伴って木曽へ帰り、旧臣である上村家に保護を求めて余生を送った。なお、次男義春は豊臣秀頼の小姓となり、三人の娘はそれぞれ毛利伊勢守、福島左衛門太夫、蜂須賀阿波守に嫁いだ。
なお、旭市の由来は、木曽義昌公の祖先である木曽義仲公が朝日将軍であることから名づけられたとのことでした。
(参考・木曽義昌物語)


旭市指定史跡
戦国武将木曽義昌及び夫人、ならびに木曽家代々供養石塔 三基
同 水葬跡石塔 一基
「木曽義昌」は信濃国木曽地方を領有し、戦国時代に武田、徳川、織田、豊臣の各武将に伍して活躍した。天正18(1590)年豊臣秀吉の命によって下総網戸(現在の旭市イ)1万石の城主として、山国から潮騒の地に移された。僅か5年の在世だったが、桜木を愛し、城下町をつくり、新田開発などに力を尽くしたという。ここ真言宗殿玉山東漸寺は文禄2(1593)年義昌に招かれた悦道和尚が開基した。義昌は菩提料を寄進して厚く尊崇した。義昌は文禄4(1595)年3月、56歳の波乱に富んだ生涯を終わった。供養塔は義昌夫人、ならびに木曽家代々のものである。なお脇に立つ六地蔵を刻んだ石灯籠「憧」は市内唯一のものである。義昌は寺の北側に広がる椿の海に水葬された。後年、椿の海が干拓されたため水葬地に墓塔が建てられた。石塔には「木曽左典厩兼伊予守源義昌朝臣墓」と刻まれている。明治44年改修された。
義昌250回忌に京都の国学者野々口隆正が、「信濃よりいつる旭を志たひ幾て東の国にあととどめ見舞」と詠んだ。明治22年、新町名をつける際、発展の象徴である旭日とともに、この和歌の旭をとって旭町とつけられた。東漸寺及び地元では義昌死去の3月17日に毎年供養を行っている。
(看板資料より)


木曽左典厩兼伊豫守源義昌公は朝日将軍木曽義仲公19代の孫にて奥方は武田信玄公の息女万里姫なり。
天正18年遠く木曽福島より此地に移り来り網戸城主となり1万石を領せらる。城下を画し街市を営ましめ網戸邑繁栄す。
亦義昌公城内の一隅に木曽家累代菩提の為東漸寺を建立し公随身の悦道和尚これを開基す。
文禄4年3月17日義昌公薨じ遺言に依り此の地に水葬せらる。法名は東漸寺殿玉山徹公大居士を号す。
義昌公は戦国の武将なれども頗る頗る奉佛崇祖の念篤く領民に威を振うこと無く仁を以って臨み善政を施せり。ために邑民其の徳を偲び公を網戸興隆の祖と仰ぎ敬慕尊崇し3月17日の命日には公没してより今日に至る迄年々追善供養怠ること無し。
尚、因みに当市の名称「旭」は義昌公の祖朝日将軍義仲公の「朝日」に由来するものなり。
先般念願の機熟し時の区長住職有志等木曽家発祥の地木曽福島を尋ね菩提寺、興禅寺の木曽家累代の墓に詣で報恩謝徳の誠を捧ぐ。亦公ゆかりの史蹟をめぐり、想いは遠くつわ者共の夢の跡に馳せ感無量なり。
我等今茲に碑を建立し義昌公の遺徳を永へに顕彰せんとす。
此地に来る者は道義の永遠に人心に徹する理を知るべし。
(石碑資料より)


木曽義昌公史跡公園
興禅寺
真理姫の墓
大通寺
福島城

 

 
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