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神奈川県秦野市

蔵林寺


2003年11月23日

ここには米倉丹後守一族の墓地があります。蔵林寺と書かれた入口に車を止めて中に歩いて行きましたが寺の境内には立派な駐車場がありました。そのまままっすぐに進むと本堂と思われる建物があり、向かって左側の方に進んで坂を登ったところに「米倉丹後守一族の墓地」があります。
本堂右側の建物の呼び鈴を押してしばらくすると住職?と思われる老人が現われたので、詳しい話を聞こうとしたのですが詳しいことは現場の案内板に書かれている通りであるとの返事でした。
事前に掲示板で教えていただいていた情報の通り、中央の奥の柵がついている墓の右手前の墓石の裏には天正三年〜という文字を認識することができましたが長篠という文字は見当たりませんでした。

永禄5(1562)年、11月武田信玄、義信父子は、北条氏康、氏政父子とともに上杉憲勝守る武蔵松山城を攻め、翌永禄6(1563)年2月4日に落城させた。
甲陽軍鑑によれば、このとき甘利左衛門尉昌忠の家臣米倉丹後守重継が信州刈谷原城攻めのときに考案したという、竹束に身を隠して敵を攻撃する戦法を使って成功したとか、米倉彦次郎が鉄砲で腹を撃ち抜かれ、血が腹の中にたまって膨れ上がったが、甘利左衛門尉が馬糞を溶かした水を飲ませて助かった話などが伝えられている。
(新人物往来社:定本 武田信玄より)
→松山城


米倉丹後守一族の墓地

米倉氏は清和源氏武田の分家で新羅三郎義光の曾孫義行を祖とし、その孫信継が甲斐国八代郡米倉郷に住み米倉姓を名乗った。信継十世の孫重継は、武田勝頼の配下として天正3(1575)年長篠合戦で戦死した。その子忠継は、武田氏滅亡後徳川家康に仕え、甲斐国内で徳川勢力の拡大に努めた。その後、種継、清継と相続し、清継の代に、当地堀山下村の領地200石を賜った。その孫昌尹は、元禄3(1690)年丹後守に任ぜられ、同九年若年寄にすすみ、相模、上野、武蔵に領地を賜り、一万石に加増された。また増上寺修理、東叡山根本中堂の築造、山城の淀川水路補修等の功績により奉行をつとめ、元禄13年正月所領1万5千石に加増され、7月12日63歳で逝去した。その孫忠仰は元禄9年武蔵国金沢陣屋に住み、金沢藩主となり代々丹後守、長門守、主計頭を称した。
蔵林寺は、享徳年間(1452〜1455)に瑞秀祥禎和尚によって四十八瀬川上流の寺屋敷の地に開かれ、文明年間(1469〜1487)に現地に移ったと伝えられる。寛文13(1673)年九世牧泉養牛和尚の代に米倉昌尹が先祖供養のために、本堂庫裡を建立し、さらに宝暦年間(1751〜1763)年に昌晴が再建した。
(看板資料より)

米倉丹後守の墓

 
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