裁判法廷で証言された「慰安婦制度」

吉見義明中大教授が法廷で鑑定証言。その一問一答。吉見教授発見の資料を報じる朝日新聞92.1.11
「慰安婦」問題とは何か──についての内容でもある。
→◆政府調査結果発表「いわゆる従軍慰安婦問題の調査結果について」

 右・吉見教授が発見した資料を報じた「朝日新聞」1992.1.11




「戦時における女性に対する性暴力、性差別であった」
 鑑定証人尋問
 吉見義明 中央大学教授
 担当 福島瑞穂弁護士(原告法廷代理人)

アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件
(韓国・太平洋戦争犠牲者遺族会)口頭弁論 
1997年12月15日13時30分より、東京地方裁判所713法廷
(*弁護士との問答形式で口頭で答えられた傍聴メモ=はらだ)

吉見義明教授
 この裁判の「訴状」を読んで、鑑定書を提出した。
 私は、中央大学商学部教授、日本近現代史専攻。特に第一次大戦後の、満州事変から対中15年戦争、毒ガス戦などを研究してきた。
 「慰安婦」問題に関係したのは、1991年12月、金学順〔キム・ハクスン)さんら数人の裁判提訴があり、その語ったことがきっかけだった。「日本軍によって被害にあった声を日韓の若い人に伝え受け止めてもらいたい」といわれたのだが、そういうことが歴史を志したもの、歴史家の使命であると思った。


福島瑞穂弁護士──軍の関与の調査について。

 1938年3月、日本軍が(慰安所)業者を選定、業者は中国、朝鮮、日本国内で「慰安婦」を集め、誘拐で検挙。陸軍省が今後統制することになったという記録がある。業者の人物選定、徴募について業者が集めるときも業者を軍が選定していた。地方でも憲兵と連絡を密にしていたことが資料にある。このことが朝日新聞で報道され、政府は関与を認めることになった。


──慰安所の始まりと経過。

 現存する資料では、1932年上海で最初の慰安所がつくられた。海軍が貸座敷を軍専用とした。陸軍は海軍を見習い、長崎県知事に頼んで慰安所をつくる。1931年満州事変で満州に1933年初めて熱河省平泉に慰安所をつくった。1937年12月ごろから盛んにつくられるようになる。盧溝橋事件、第二次上海事変、そして南京占領への過程だ。
 上からの指示で慰安所がつくられた。
1・1937年12月中支那方面軍が慰安所設置を指示、東支那にも。
2・1938年6月北支那方面軍参謀が強姦が多発するので慰安所を指示。
3・陸軍省に報告されたのは兵100人に1人の「慰安婦」をというもの。
 1941年12月対米英戦に入り、翌年、新たに慰安所がつくられる。東南アジア、太平洋、香港など。陸軍省が全体を統括し、400個所(地域だろう)に慰安所をつくったと報告されている。

──慰安所を軍がつくっていく動機。

 公文書によると、
1.強姦事件の防止、
2.性病対策、
3.軍人への慰安、
4.防諜であった。
 (中略)

──「慰安婦」制度の全体像。

 始まった時期は1932年上海事件時、拡大するのが1937年12月ごろ、そして1942年には東南アジア、太平洋地域に広がる。千島、インドネシア、スンバ、東はニューブリテン、西はビルマのアキャブ、アンダバン。

──「慰安婦」の人数について。

 明確にするのは困難。理由は、軍資料が焼却されたこと、警察資料が公開されていないこと、「慰安婦」の名簿がないこと。警察庁の資料では400名の業者名があるが、女性の個人名は求めていない。

──あえて人数を推計すれば。

 陸軍は上から兵100人に1人の「慰安婦」といった。ならば海外の兵員は最大350万人だから、300万として3万人、交代数を入れて6万人、その間で4万5000人となる。ただしこれは上からあてがった数字で、現地の軍が独自に集めた数があるともっと増える。大体8万から20万人とされるが、そんなに不当な数ではない。

──「慰安婦」の民族別構成は。

 一つの資料がある。1940年大本営の研究班が性病罹患について調査。相手女性の調査結果は、朝鮮人52%、中国人36%、日本人12%。すべてが「慰安婦」ではないだろうが、比率から相手は「慰安婦」と考えられる。朝鮮人、中国人の比率が高かった。
 

──日本政府の1993年8月4日の「いわゆる従軍慰安婦問題の調査結果について」の報告について。

 徴募、移送、管理に軍、官憲が関与していることなどは、その通りだ。性奴隷状態といえる。

──当時の河野(洋平)官房長官談話について。

 河野長官は、かなり認めることは認めている。ただ、だれが問題を引き起こしたのかについて、主たる責任は業者にあると読めるようになっている。しかし、それらは軍の要請をうけた業者である。大本は軍にある。つくり、運営した主体は日本軍であり、業者は軍の手足に使われたのである。

──政府の調査について。

 政府の調査は一定の評価はする。だが、公開されている文書、公文書である。非公開の資料が出されていない。旧植民地─朝鮮、台湾総督府関係の資料を調査し公開する必要がある。
 また、「慰安婦」送出に警察が関係していた。渡航証明書を出している。警察関係の資料は真相究明に大きな影響がある。陸上自衛隊の学校にある資料も調査しなければならない。防衛庁でも、旧軍人の業務日誌、従軍日誌も関係部分は公開すべきだ。法務省にはBC級戦犯関係資料があり、「慰安婦」関係でオランダ5件、アメリカ1件、中国2件が公表されているが、もっと調査、公開が必要だ。
 

──被害者の「証言」、オーラルヒストリーについて。

 オーラルヒストリーについては、欧米では学会もある。60年代から70年代に研究が進み、オーラルヒストリー協会ができていった。いまでは歴史学になくてはならない存在になっている。文字、記録をもたない、弱者、少数者、女性など、記録を残すことができなかった人たちの証言、オーラルヒストリーは必要不可欠だ。欧米では確固たる地位をもっている。

──(原告)金田きみ子さん(仮名)の証言について。

 証言によると中国北部、天津、棗強、平原、石家荘などを語っておられ、移動慰安所の「慰安婦」だったと考えられる。信ぴょう性を高めるものとして、金田さんは慰安所生活の苦しさで、アヘン中毒になったといっている。麻薬、アヘンの使用は軍公文書にもあり、軍人の証言でも確認される。

──(原告)文玉珠(ムン・オクチュ)さんについて。

 一度は1940年、中国、二度目はビルマと証言されている。この方が軍事郵便貯金をし、その原簿が熊本に残っていて、もっとも強い根拠となっている。同貯金をしていたことからも、「慰安婦」が軍属に準ずる待遇だったことがわかる。

──原告Cさん。

 (おかれた慰安所は)ビルマだが、「アラビア丸」という船の名を証言している。1944年2月、臨時編成された第49師団がアラビア丸を使った。

 本法廷に中曽根康弘氏を呼びたいということだが、彼は、海軍主計将校として慰安所設置を行ったと述べている。元サンケイ(産経新聞)の鹿内信隆氏は陸軍経理学校の経歴をもち、その証言もある。中曽根氏は、重要な事実を述べているのである。(慰安所を設置した)場所はインドネシアのバリコバンといっているのだが、その証言は詳しくしてもらう必要がある。「部下のためにやった」ということになるのだが、このように、少し前までは、このテのことが自慢話になっていた。

──「売春婦」であったという説について。

 本人の自由意思であったというものだ。しかし、漢口兵站司令部長沢○○の体験記にこう書かれている。内地から来た女性が性病検査を拒否した。「自分は兵隊を慰めてあげる役目だと聞いていた。(違うから)帰らせてくれ」つまり慰安所、性の相手をすることとは聞いていないということ。翌日その女性は目がふさがっていたという。強制して性病検査をしたということだ。身売り、だましの重なった事例だ。翌日から兵の相手をさせられることになった。
 これは、当時の刑法226条、国外誘拐罪にあたり、この違法行為を軍は止めさせなかった、送還していないのである。

 以上をまとめると、
 「従軍慰安婦」制度の本質は、1.戦時における女性に対する性暴力、女性差別である、2.日本人以外の女性を犠牲にした人種差別である。10パーセントくらいの日本女性もいたが、前歴が売春婦を主としていた。そういう前歴のない植民地、戦地の女性で貧しい者を使った、3.貧しいものへの差別であった。これらが重なった、重大な人権問題である。
 したがって、問題の事実を調査し、それを公開すること、日本の責任において名誉と尊厳を回復させること、法的・道義的責任を認め補償を行うこと、さらに二度とこのような問題を起こさないよう再発防止の措置をすることである。

 最後に、申し述べたい。
 この裁判は、国際的に注目されている。起こったこと、過ちを認め再発させない決意をはっきりと示すよう望みたい。日本人と国家の、道義的アイデンティティを回復し、確立していくこと、回復されるようにしていくことが何よりも大事だ。



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