プログラミング (況やコンピュータとも) 直接の関係はないが、本書は非常にスリリング。上記は煽り文句から。『母語が思考を枠づける、とするサピア、ウォーフの言語決定論を実証的にしりぞけ、言語本能説の前提として、人は普遍的な心的言語で思考することをまず洞察する。さらに、文法のスーパールールが生得であること、その基本原理を幼児は母語に応用して言葉を獲得することを、最新の発達心理学等から確認する。チョムスキー理論をこえて、人がものを考え、言葉を習得し、話し、理解するとき、心の中で何が起きているかを解き明かす(後略)』
『すべての子どもは、文法の基本原理を生まれつき持ちあわせて誕生するが、三歳までにどのように天才的に言葉を習得するのか。脳内のどこかに文法の遺伝子を見出せるのか。人類史上、言語はなぜ、いかに発生、進化したのか。スラングや方言などは、言語の堕落を招くのか。(後略)』
ついでに、河合雅雄, "深林がサルを生んだ", 平凡社, 1977, 講談社文庫, 1985, も併読するとおもしろいっす。ちなみに、第 9 章、第 12 章には "子殺しの行動学" への言及がある。こちらはぐっと人類文化論の比重が高い。文庫版は森毅の「解説」が付されていて、これが逸品。だけど、カバーの迫力は単行本の方が大きい。 また、河合さんの本から、 竹内芳郎, "文化の理論のために", 岩波書店, 1981, 1982, という方向も「アリ」です。こんだけ参考文献、引照文献リストがあれば、しばらくはダイジョブ (?)。(でも G. Steiner がリストに一つしか見当たらないのは不満)南インドの野生ザル、ハヌマンラングール。群れを率いるボスザル=ドンタロウに挑むはぐれ雄=エルノスケ。激闘数日、挑戦者が勝利をおさめ群れを乗っ取ったとき何が起こったか? 凄惨な「子殺し」行動の一部始終を克明に観察し、その意味を考える。動物は同じ種同士は殺し合わないとする動物行動学の常識を一変させ、話題の「利己的遺伝子」理論のもととなった世界的大発見の記録。
社会とは生態現象の突出した一部分である。著者紹介によると、「1935 年 (昭和 10 年) 生まれ」とのことである。 夢野久作の長男、龍丸氏が 1919 年 (大正 8 年) の生まれであるからして、お孫さんであるというのは、やはり間違いか。まだ、そんなこと言ってる。
言語を話すことは特有の世界・環境 -- とはその言葉の強い、語源的な意味における俗事 -- を生き、構築し、記録することである。それは時間のなかの風変わりな風景に住まい、それを横切ることだ。辞書はもっとも生き生きとした包括的な地図帳である。単語や慣用語句の地層というか階層的起源というか生活空間 (レーベンスラウム)、特権的記憶または抑圧された記憶、地域社会と文化の法律や文学、等々をカプセルに封じ込める。リトレ編纂のフランス語辞典やオクスフォード英語辞典をひもとけば、言語というものは、特定の土地からとうに姿を消した樹木や動物の名前を気味が悪いほど頑固に留めていることがわかる。それらは、遠い昔に廃れて今ではほどんど解読できない習俗や制度の輪郭を保存している。 p.122.音楽好きは、第 6 節 (p.89) を読め。
わかっているのは音楽が私の人生の必須条件であることだ。音楽は私が超越的なもののなかにあると感じているもの、いやむしろ探し求めているものを再保証してくれる。ということはつまり、音楽が私に一つの存在の現実を、紛れもなく「そこにあるということ」の現実を実証してくれることであって、それは分析的にしろ経験的にしろ一切の定義を峻拒する。 p.107.スタイナーは「文化のきらびやかな自由をひと皮剥けば、宗教に根ざす組織的なユダヤ人憎悪が渦を巻き、悪臭を放っていた」ウィーンを去ったユダヤ人の両親の間に 1929 年パリで生まれた。一家は 1940 年、アメリカへ渡った。それがどういう意味を持つかというと、ヨーロッパにもう少し留まっていたら、スタイナーは確実に強制収容所行きになっていたに違いないのである。
ユダヤ人が許されないのは神を殺したからではない、神を「生んだ」からなのだ。 p. 81.よって、上記には以下の背景がある。
文字どおりそうだというのではない。おやじのみとおしのよさ (1924 年ウィーンをはなれたことがそれを示している) のおかげで、わたしは 1940 年 1 月にアメリカに来た。あのいんちきな戦争の時代に。わたしたちは、わたしがそこで生まれ、そだったフランスを、無事にはなれた。それでわたしは、名前がよばれたときも、そこに居合わせることがなかったのである。ほかのこどもたち、ともにおおきくなった連中といっしょに、公共の場所に立つことはなかったのである。汽車のドアがひきはがされて、おやじとおふくろが消えていくのをみることもなくてすんだ。だが、ちがった意味でわたしは生きのこりなのであり、まったく無関係ではないのである。 (「ある意味での生きのこり」, "言語と沈黙", p.301.)ほかの手持ちは以下のとおり。
文字どおりそうだというのではない。父の先見の明のおかげで、私はいかがわしい戦争の最中の 1940 年 1 月にアメリカへやって来た。私が生まれ育ったフランスを、私たちは無事に出た。だから、名前が呼ばれた時に、私はたまたまそこにはいなかった。私は一緒に大きくなった他の子供たちとともに広場に立ったりはしなかった。また、汽車の扉が開かれた時に父と母が消えて行くのを見たりもしなかった。しかし別の意味で私は生残りであり、無疵の人間ではない。 (訳者あとがき, "悲劇の死", p.410.)
Not literally. Due to my father's foresight (he had shown it when leaving Vienna in 1924), I came to America in January 1940, during the phony war. We left France, where I was born and brought up, in sagety. So I happened not to be there when the names were called out. I did not stand in the public square with the other children, those I had grown up with. Or see my father and mother disapper when the train doors were torn open. But in another sense I am a survivor, and not intact. p. ("A Kind of Survivor", "Language and Silence", p.140.)
手始めには、「瓶詰の地獄」, 「氷の涯」, 「ドグラ・マグラ」 を収録する "日本探偵小説全集4 夢野久作集", 創元推理文庫, 1984., が妥当なところか。 現代教養文庫、角川文庫で「犬神博士」収録巻が手に入れば、そちらも佳い。
とりあえずどれか一冊ということであれば、やはり、"忘れられた日本人", 未來社, 1960, 岩波文庫, 1984, 1995., である。 かの坂本長利氏の一人芝居『土佐源氏』は (って、わたしはだいぶ昔の NHK の演劇特集番組でちらっと観ただけなので、筵をバタバタいわせる所作しか知らんのだが)、 同書所収の同題作に触発されたもの。 とにかく読んでみろって。
CD, LD も必要。