民主党「促進法案」に挺対協、婦援会は
なぜ賛同できるのか?
挺対協=韓国挺身隊問題対策協議会。女性問題、「慰安婦」問題の運動団体の集まり
婦援会=台北市婦女救援社会福利事業基金会(婦援会)。台湾の女性問題活動団体で「慰安婦」認定、支援
2000.
4月11日、民主党が参議院に提出した「慰安婦」問題解決の「促進法」について、韓国の挺対協、台湾の婦援会が同党本岡議員のもとに、法案に賛同すると3月に回答したようだ。
「国の責任で解決を促進する」として、総理が会長になる「会議」で官房長官、関係省庁の大臣を委員として「基本方針」を決め、措置をするという同法案だが、じつは「慰安婦」問題は国に法的責任がある、国が補償するという規定─条文はどこにもない。
しかも、民主党発議者たちは、アジア女性基金是認、その事業を妨害しないといっている。
それなのになぜ、アジア女性基金反対、国家の謝罪と補償をかたくなにいってきた二つの運動団体が賛同したのか? これまでの主張からして賛同できるのか? あっとおどろくような妥協に、大きな疑問がわく。日本の韓国・台湾運動支援グループも、態度が問われることになるだろう。
矛先を間違え、アジア女性基金を受け取るなと、あらゆる手段で被害当事者に脅しすかしをやってきた二団体に同調してきた日本の運動団体、職業運動家・原則主義者が、ワラをもつかむ思いで、やはり同法案に賛同するのだろうか。被害当事者の意思が第一であるという、初歩の態度もとれない「市民運動」が、いよいよここらで自分を守る、体裁をつくろう段階に入っていくのだろうか。「運動のための運動」のつじつま合わせ、どんな物言いが出てくるか、見ものである。かられは、「非妥協方針が政府を追いつめ、好結果が出る」といってきたのである。この法案提出が「勝利」とでもいうのだろうか。
相手のあることだから「最善」をとればいい、という手口が考えられるが、民主党単独提案となり、国会構成から、運動が賛同はしても、成立の見込みはないのに「努力はした」、提案自体に「意義がある」というなら、まったくの茶番となるだろう。
一部の運動家が国連人権委でこの法案を紹介したようだが、その発言内容を、同様の立場に立つ他のNGO参加者は、まだ伝えていない。(4.21.2000)
その後、日本の「慰安婦」運動グループは右へならえのように、こぞって賛成、歓迎…万歳をいわんばかりの声明で迎えている。
アジア女性基金は認め、これでいい、政府が改めて謝罪、国が個人支払いをしたのだというようにという「法案」で民主党と反「基金」グループもいいだす。結構なことだ。しかし政府は、「基金」という政策を実施している、とすでに国会で答えている。歓迎して、その後はと問えば、また「運動」をつづけるのだ、と答えるのだろう。
なお、国連で有光健氏がNGOとして話し、「大きな進展」として「法案提案」を紹介したということだ。(4.26.2000)
自ら「マインドコントロール」という──
戦後補償「運動」はこれでよいのか
最近の「慰安婦」問題の運動の特徴がはっきりしてきた。「民族主義」と「フェミニズム」の野合と、自己肯定と自己否定組の"国際連帯"という結託である。
具体的には、日本の女性を中心とした運動が韓国に働きかけ、12月に東京で開催するという「女性による戦犯法廷」である。そこに集中していく運動になっている。「戦争は男がやるもの」という日本の女性リーダーと、「日本のカネは受け取ってはならない。民族の自尊心を売り渡すことになる」という韓国の女性リーダーの結びつきなのだ。
韓国の「慰安婦」運動を応援するという運動は、いま、「戦争の犠牲者は昔も今も女、戦犯を女が裁こう」と呼応して、会議の準備に忙しいらしい。
韓国側の運動は、「慰安婦」問題に日本は公的謝罪と国が賠償をせよという。「そうだ、そうだ」日本が悪い、と一緒に合唱するのが日本側の運動という構図である。男の戦争、戦争の犠牲は女、女が戦犯を裁く──。実に平易で直線的な運動にしているのである。それは正義であり、そこで国際連帯をはかるという。被害者の側に立つとは、アジアの運動の側に立つこと。被害者に対し、私たちは日本の戦犯のクビを差し出します。ああ、これこそが正義、というわけである。
すぐにも日本の賠償をとると嘘のような「目標」をかかげる。「慰安婦」をめぐる事実についてあいまいな言説をまき散らす。それもこれも、個人補償、賠償こそ正しいと主張する運動にとって、当の被害者が「アジア女性基金」に手を出されては困るからであり、「もうすぐ賠償がとれるから」と押さえ込もうとする。アジア女性基金に手を出せば、韓国政府のカネを打ち切る、永久賃貸の公営アパートを追い出す、果ては「自ら進んで出ていった売春婦になる」「民族の自尊心を売り渡す汚い女」と脅し、なじる。運動のために被害者を叩いてもいいという、逆立ちした行道にはまっているのが、かれら「運動」の実態なのだ。
国の賠償こそ正義、賠償はもうすぐ実現する、被害者はそれを望んでいる、アジア女性基金にはほとんどの被害者が反対し受け取らない。──ウソも欺瞞も百回繰り返すと本当になり正義になるらしい。繰り返し「補償、賠償」と唱えて「正義の運動」と思い込み、そこに酔いしれているのではないかと思える。
「運動」の自己欺瞞を示す、一つの事実をいっておこう。──かれらの「運動」の重要な位置を占める人物が、「かれらはマインドコントロール状態なんですよ」というのである。そういった人物を「長」にかつぎあげて、かれらはもう二年も運動をつづけているのだ。その言葉を聞いて、驚き、あきれ返ったものだ。かれは、公の集会などでは、「補償こそが正しい」とあおる役目を果たしている。できないとわかっているけど、スローガンだけは呼号する。被害者には、補償まで待てという。それほどに「運動」はフハイしているのである。
異論を許さない、違うアプローチは反動だ、転向だと他を切り捨てて、こぢんまりとサークルでまとまる。デマによって敵を仕立て、ますます自らは正義と確信する自己回転運動なのだ。被害者にとって、また市民活動にとって、こうした実態が危機そのものだといえる。
かれらがどんなに安直なマスコミの話題にのろうと、自己欺瞞を「正義」や「原則」で塗り固めた「運動のための運動」は、害悪をまき散らすだけである。自己欺瞞という内因によって、フハイが進むだけなのだ。
運動の陥りがちなアナにほんとに落ち込んで、冒頭にいったような、つぎはぎだらけのていたらくになったのだろう。いってしまえば、「思い込み一直線」の、ひからびた「運動」になりはてているのだ。どこに被害者の声があるのか、答えを出す真剣さがあるのか。厚顔にもウソをつみ重ね、被害者を騙っていることをみれば、あきらかだと思う。
こういう事態こそが、かつて左翼主義者の「非転向の転向」として総括されたことなのだ。つまり「原則、正義」を自己検証もできず、社会の実態を捉まえられず、結果として人々から離れ、ひとびとを裏切っていくのである。リーダーたちは、運動やマスコミ世界にいっぱしの場所を占めて、「市民運動の地位」や労働運動の一角を占めるという、さもしくいぎたない残り方をするだろう。刺身のつまにされた被害者や、ついていく人たちは何の成果もなく、十年一日のスローガンだけが残るのだ。高い目標を掲げるほうが、政治的運動にとっては便利なのだから。
日本の悪、オコトノ悪=暴力・戦争、「天皇制こそが根源」という図式をあてはめるだけの「慰安婦」ハイエナ運動。自らを問わない、他に敵を求めるだけ、綱領があって答えがない運動。深刻風によそおっているが、無自覚な酔っ払い状態といわざるをえない。
自己責任、そのとらえ方をするどく検証しない、この国らしい運動が、また繰り返されている。左翼─新左翼─「連合赤軍」の悪弊が「市民運動」の名で復活しているのである。この、繰り返される「無責任」「政治主義」「主観主義」「知識主義」、そして体内に隠し持った民衆差別感──。これらを克服せずして、何の成果にもつながらないことを肝に銘じておきたいと思う。
不器用なもの、ほんとうの被害者は死んで、正義をひけらかす狡猾な政治屋・運動屋が残る──。そんなことがあっていいのだろうか。
措置法は戦後責任の象徴
はっきりいって読みにくい、つぎの文に目を通していただきたい。
1 次に掲げる大韓民国又はその国民(法人を含む。以下同じ。)の財産権であって、財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定[昭和四〇年一二月条約第二七号](以下「協定」という。)第二条[財産、権利及び利益並びに請求権に関する問題の解決]3の財産、権利及び利益に該当するものは、次項の規定の規定の適用があるものを除き、昭和四十年六月二十二日において消滅したものとする。ただし、同日において第三者の権利(同条3の財産、権利及び利益に該当するものを除く。)の目的となっていたものは、その権利の行使に必要な限りにおいて消滅しないものとする。
一 日本国又はその国民に対する債権
二 担保権であつて、日本国又はその国民の有する物(証券に化体される権利を含む。次項において同じ。)又は債権を目的とするもの
2 日本国又はその国民が昭和四十年六月二十二日において保管する大韓民国又はその国民の物であって、協定第二条[財産、権利及び利益並びに請求権に関する問題の解決]3の財産、権利及び利益に該当するものは、同日においてそ
の保管者に帰属したものとする。この場合において、株券の発行されていない株式については、その発行会社がその株券を保管するものとみなす。
3 大韓民国又はその国民の有する証券に化体される権利であって、協定第二条[財産、権利及び利益並びに請求権に
関する問題の解決]3の財産、権利及び利益に該当するものについては、前二項の規定の適用があるものを除き、大韓民国又は同条3の規定に該当するその国民は、昭和四十年六月二十二日以後その権利に基づく主張をすることができないこととなったものとする。
附則
この法律は、協定の効力発生の日[昭和四〇年一二月一八日]から施行する。
タネ明かしするまでもなく、この国の歴とした法律、略称「措置法」だ。
もう一度、ストレスいっぱいの文をつづけよう。
財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定第二条の実施に伴う大韓民国等の財産権に対する措置に関する法律【昭和四十年一二月一七日法律第一四四号】
財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定第二条の実施に伴う大韓民国等の財産権に対する措置に関する法律をここに公布する。
財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定第二条の実施に伴う大韓民国等の財産権に対する措置に関する法律
と、大六法には出ていて、冒頭の法文につながる。[]内は、編集上つけた部分。
昭和40年(1965年)、国会は日韓基本条約、請求権・経済協力協定、関連法を一括採決した。その一つがこの法律。請求権・経済協力協定で、「完全かつ最終的に解決したものとする」と明文化したうえでこの立法を行った。
字義通り、韓国人の権利─財産権を奪う法律なのである。
戦後補償を日本(政府)に求める韓国人にとって、最終的にこの法律が立ちはだかっている。韓国・太平洋戦争犠牲者遺族会の補償請求裁判で、原告が旧日本軍に関して「未払給与」が供託されている事実があると、その還付を請求したところ、国は、この法律によって権利は消滅している、と答えてきた。
これに対して原告・代理人は、財産権保障の憲法違反ではないかとして、国側と争っている。
さらに、原告・代理人は、戦後処理において賠償・経済協力協定を各国と結んでいるが、その他に同趣旨の法律等があるかどうかを、国側に訊いている。しかし同裁判の口頭弁論(1月31日13時半、東京地裁713法廷)でも答えは出てこなかった。
戦後補償の裁判で原告・代理人は、補償請求の法的根拠を主張して、被害者が受けた物心にわたる被害について補償を求めている。国際法、国内法を動員しての主張である。それを通して、被害事実を国が法的責任によって補償すべきであること、補償をしてこなかった戦後責任を認めることを要求している。ひいては植民地支配とアジア・太平洋戦争における侵略の責任を明らかにする訴訟である。
この「措置法」は、日本の戦後責任を真っ向から否定し、国家間の条約・協定ですべて解決したとする日本政府の立場をそのまま法律にした例であろう。戦後の援護法における「国籍条項」とともに、個人の被害者の請求権を奪うという「用意周到」さを韓国・太平洋戦争犠牲者遺族会裁判はあばき、日本の戦後処理を全面的に見直す判断を裁判所に求めているのである。
なぜこのような法律を、とくに韓国について、政府が提案し国会が成立させたのか──このことは、まさしく日本の戦後責任、国民としても責任のあることを明らかにしている。知らなかったとすれば、知らないことが責任である、といえるのではないだろうか。
「国が個人補償すべきである」といって被害者と一緒に活動しているから、この国の責任に無縁であるというのは、「国家と市民」の仕組みの中で自己責任を放棄することになる。日本が批判されていることには、「私」にも一定の責任があると受け止める。その意識こそが戦後日本の情況を変えようとする根拠となるのである。「措置法」をわが国会が通し、いまもこの国の法律として私たちがもっていること、そしてその事実にあまりに無知であったことは、「国民としての」戦後責任でなくて何であろう。
「償い金」受け取りをなぜ否定
一月二十四日付朝日新聞本欄、女性のためのアジア平和国民基金(アジア女性基金)の償い金お届けについての山口明子さんのご意見は、「慰安婦被害者」を代弁する立場で書いておられるようですが、ご自身は具体的になにをめざし、なにを実現できるとお考えなのでしょう。
「基金」が韓国で「支給を強行」といわれます。とすると、被害者自身が受け取りたいと申請しても渡すな、というのでしょうか。受け取るか受け取らないかを決めるのはご当人だと思うのですが、「支給すべきでない。受け取りたくない相手に支給した」という意見なのでしょう。
もちろん、立場として「政府による賠償」以外は一切だめということも、一つの姿勢です。一身をかけ、被害者の命あるうちに責任をもって「賠償」を必ず実現するなら、それは尊重されます。ご自身が、どこまで責任をもつおつもりなのでしょうか、お聞きしたい。
もともと、被害当事者から日本側が責任を問われ、以後辛うじて具体的な対応ができたのが現状です。アジア女性基金は、具体的な行動として償いの実行に入っています。いまも三千円、五千円と、みなさんから寄せられています。基金の趣旨を理解され、「国の補償を望むが、すぐ実現できないいま、国民の一人として謝罪し償いたい」というメッセージも多いのです。これを元に償い金を、そして政府からの道義的責任を果たすための医療・福祉支援事業を、ともにおばあさんたちにお届けするものです。総理の手紙をもらっても「慰安婦」というらく印は消せないといいながらも、「感謝します」との言葉もとどけられています。いい薬を使ってからだを治したい、田舎の小さい家に移って細仕事でもしたい、温泉治療もしたいなどと、使い途の希望も聞きました。
韓国では元「慰安婦」のほとんどのおばあさんたちは一人暮らしです。七十代半ばを過ぎ、「あした死ぬかもしれない」不安があります。にもかかわらず、支援団体などが元気にいう「基金反対」「中止」、揚げ句に「受け取るべきでない」との圧力を受けて、苦しんでいます。被害者が自ら決めて「基金」事業を受けたことを、貧しく老いているから支給を強行した(受け取った)などと見下した物言いが、なぜできるのでしょう。実際に、おばあさんたちが匿名の者によって非難攻撃され、根拠のないうわさをささやかれた事実も訴えられています。こんなひどい状況だから、プライバシーを守ってほしいとの希望が出されたので、静かにお渡しする方法をとったのです。
山口さんは、「被害者」の名をかりて、あれもこれも「ダメ」と否定します。では、どんな答えを、だれが出せば「ヨシ」とするのでしょう。審判者のように高みに立つ主張だけでは、現実は一歩も進まないのではないでしょうか。たとえば一人のおばあさんに、生きていてよかったといってもらえる、そのことを目指して、自らの責任で具体策を実現することが大事なのではないでしょうか。ひとを批判し続け、ひとに「やりなさい」といっていれば、自らは痛むこともなく責任もなく、結果についての反省も要らないのです。
「被害者たちの心情を逆なでするような措置」と一方で被害者のようにいいながら、受け取った被害者たちの心情には目もくれないのは不思議なことです。「貧しさにつけいった支給強行」と図式的に決め付けていうことが、結局、被害者自身をおとしめていることに気づいておられない。そんな「立場」には、冷たさを感じます。「恥ずべき日本側のおごり」といって、その「日本側」に山口さん自らは決して入らない。「私は正しい」とおっしゃりたいことだけはわかりました。
1997年未出稿