英国バースに滞在して


 私が文部省長期在外研究員として選んだ留学先がBath(バース)大学だったおかげで,1998年6月から1999年5月までの1年間英国で最も美しい町といわれるバースに滞在する幸運に恵まれた。バースはロンドンから列車で西に約1時間半,四方を丘陵地で囲まれた盆地に佇む人口約80,000人のさほど大きくない町であるが,この町が英国で唯一UNESCOの世界文化遺産都市に指定されているのは,Bathの名前の由来ともなった有名な古代ローマの浴場跡があるからだけではない。18世紀にバースが上流階級の温泉保養地として大いに栄えた時代に建てられた美しいジョージ王朝様式の建築群がほぼ完璧に当時のまま保存されているからである。Royal CrescentGreat Pulteney Streetのあたりをちょっと歩いてみれば,見事に保存されている優美で端正な建物の姿に誰もが感銘を受けるに違いない。バースは多くの著名な作家に愛された町でもある。英文学がお好きな方は,オースティン,ディケンズ,フィールディング等にゆかりの史跡を巡るのも一興であろう。本当に偶然ではあったが,おせっかいなほど親切で自分の庭の手入れに余念がない隣人のMs Pickwickは,19世紀ヴィクトリア時代の文豪ディケンズの出世作"Pickwick Paper"の主人公のモデルになった人物の子孫であることが分かり,色々な話を楽しく聞かせていただいた。
 バースに住んでみると,美しいバースの町並が今こうしてあるのも,200年前の昔から現在に至る多くのバース市民の不断の努力があったからこそというのがよくわかる。毎日市内のどこかで古い建物の補修が行われている。花の町と言われるだけあって,公園や広場はもちろんのこと,どこの家も手入れのよく行き届いた緑や花に彩られている。観光客が捨てていく多量のゴミは市の清掃職員が絶えず巡回して片付けている。(おかげでバースは英国一清掃の行き届いた町として表彰を受けた。)このようなバースの町であるから,市民のこの町に対する誇りと愛着は並大抵のものではない。バースに住み始めた頃,近所の人はもちろんのこと,銀行員や店屋のおじさんからよく「バースBathの町は気に入ったか?」と聞かれた。「もちろんだ。こんな美しい町には住んだことがない。」と私や妻が答えると,きまって「そうだろう,そうだろう。」という返事が返ってきたものだ。バースの魅力はその周辺に魅力的なカントリー・サイドが多いことにもある。特にバースの北部に広がる広大な丘陵地はコッツウォルズと呼ばれ,美しい昔ながらの小さな村々が点在している英国随一の田園地方である。私もその美しい田園風景を楽しむために何度コッツウォルズに足を運んだか分からない。特に日本でも名高いウィリアム・モリスの住んだ邸のあるケルムスコットの時間が止まっているかのようなのどかで美しい風景は忘れ難い。
 バースは昔から文化水準が高かったためか,小さい町ながら音楽,演劇などの公演がきわめて盛んである。音楽関係では,毎年バース国際音楽フェステイバルやモーツァルトフェステイバルが開かれ,1999年の第50回記念バース国際音楽フェステイバルでは,バース近郊出身の名ソプラノであるエマ・カークビーや,バロック・チェロの巨匠アンナ・ビルスマをはじめ錚々たる歌手・演奏家のプログラムが連日目白押しであった。残念ながら2人の子供が小さかったため,私と妻はコンサートや演劇には英国滞在中一度も行けなかった。(英国では一時でも子供だけを家に残しておくと罰せられる。)しかし,子供と一緒に行ったBath Abbeyでのクリスマス・キャロルの夕べは楽しかった。知っている曲も知らない曲もあったが,教会の合唱団と一般の参列者が一緒になって歌うときには不思議な高揚感があった。
 上でも触れたバース屈指の名建築として,建物全体が三日月の形をしている優美なRoyal Crescentがある。この建物は18世紀中頃に名建築家ジョン・ウッドによって設計された集合住宅(現在のいわゆるアパートやマンション)であった。今ではその一部が豪華ホテルや博物館になっているものの,大半の部屋は現在に至るまで一般の人の住居として使われ続けている(英国では日本と違って古い住居ほど人気が高い)。周囲の豊かな緑と調和して200年前のままどっしりと立つRoyal Crescentこそバースを代表する建物というにふさわしい。そのRoyal CrescentのNo.11の家にモーツァルトと同じ1756年に生を受け,若死にしたモーツァルトよりさらに13年も早く22才で早逝したThomas Linley Jr(以下単にリンリー)という作曲家の一家が住んでいた。リンリーの父親は当時社交界の一大中心地だったバースの音楽監督の地位にあり,かなりの地位と収入を得ていたからこそ「高級住宅」のRoyal Crescentに住むことができたわけだが,後年さらなる飛躍を期して家族と共にロンドンに移住している。リンリーは幼時からモーツァルトと同様驚くべき音楽的才能を示したという。恐らくはレオポルト・モーツァルトと同じく才能ある息子に音楽の先進国で修行させたいと考えた父親のはからいで,リンリーは12才の時1768年にイタリア・ヴァイオリン音楽界の巨匠ナルディーニに師事するためフィレンツェに赴き1771年まで滞在した。その滞在中にやってきたのがイタリア旅行中の14才のモーツァルトである。2人の同年の「天才少年」はすぐに意気投合し,お互いにヴァイオリンを弾き合ったりして興じたという。モーツァルトがリンリーに宛てた手紙や,リンリーが別れに際してモーツァルトに贈った詩が残されている。英国に戻ったリンリーがそれ以後モーツァルトに会ったという記録は残念ながら残されていない。リンリー死後の1784年にモーツァルトは,親しかった英国人歌手のマイケル・ケリー(「フィガロの結婚」などに出演した)に「リンリーは真の天才だった。彼がもし今生きていれば音楽界の巨匠になっていたであろう。」と語ったという。バース生まれの作曲家リンリーの作品は英国屈指のレーベルHyperionが出している何枚かのCDで聴くことができる。エマ・カークビーも別のレーベルにいくつかのアリアを録音している。20才前後に書かれたオードの「モーツァルトを思わせるような」流麗で美しいアリアを聴くと,モーツァルトがリンリーの夭折を惜しんだというエピソードも本当のように思え,イタリアで2人の少年はどんな話をしたんだろう,リンリーがもう少し長生きしていたらどんな曲を作ったのだろうかと色々なことを想像して楽しい気分になる。
 バース出身のリンリーというと日本では知っている人も少なかろうが,エルガーといえば日本でも英国屈指の作曲家として有名であろう。私自身,英国第2の国歌ともいわれる「威風堂々」はともかくとして,エルガー独特の英国らしいメランコリーが大好きで,機会があれば彼の生地を訪ねたいと思っていた。幸いにして彼の生地ウスター(ウスター・ソース発祥の地)はバースから高速道路M5を使って北に2時間余りと手近なところにあった。生家は現在エルガーの記念館(The Elgar Birthplace Museum)となっており,街の中心から外れた車でしか行けない不便な場所にあるにもかかわらず,多くの訪問者でいっぱいだった。さほど大きくない家や質素な調度と周囲の豊かな自然の対比は,彼が終生田舎暮らしを愛したその訳を物語っているようだった。記念館にはエルガーが彼の愛妻と仲睦まじく並んで写っている写真が展示してある。モーツァルトやワーグナーの場合と違って,悪いことにエルガーの場合は愛する妻の方が先に逝ってしまった。妻の死後エルガーがついにそのショックから立ち直れず,作曲ができなくなってしまったのはよく知られたエピソードである。記念館のショップに,こんな曲あったかなというエルガーの第3交響曲なるCDが売っていた。記念館の人によれば,アンソニー・ペインなる英国人がスケッチだけ残されていた第3交響曲を最近補稿・完成したのだという。後日テレビを見ていたら,英国の芸術関係の賞(何という賞かは忘れた)をこの「第3交響曲」が受賞していたから,ペインの仕事は英国内で高く評価されたようだ。いずれにせよ,パーセル以降自国の大作曲家を持たなかった英国人にとってエルガーが大きな誇りであることは間違いない。英国で若者にも高い人気を誇るクラシック専門のラジオ局"Classic FM"の番組テーマ曲にはチェロ協奏曲第1楽章の有名な主題が使われているし,日本ではめったに演奏されない第1,2交響曲もよくステージにかかる。「第3交響曲」は残念ながら私自身未聴であるが,授賞理由によれば「エルガー自身の情熱や思い入れが伝わるすばらしい仕事」をいつか是非聴いてみたいと思っている。
 以上のようなことを書くと,「1年間の英国滞在は本当に楽しいことばかりだったんだな。」と言われそうだが,決してそんなことはない。家族,特に私のように幼い子供を2人同行すると,家探しに始まって,子供の病気,学校等のことで誰もが多かれ少なかれ苦労をするに違いない。しかし,家族で日本以外の国に滞在することは,その苦労を補って余りある貴重な体験を家族全員にもたらしてくれる。間違いなくその国のこと,その国の人をより深く知ることができる。個人主義の国だけあって,一般に英国人は他人のプライベートに口を出さないが,決して他人に無関心という訳ではない。どこでも老人,障害者,乳幼児を連れた人への思いやりは徹底している。ベビーカーをバスから降ろすのに苦労していたとき,こちらが助けてあげたいような80才くらいのおじいさんが一生懸命手を貸してくれたこともある。何よりも上の子が肺炎で入院した時に,大学の研究室全員からのお見舞いとして,カードとテディ・ベアを一人の英国人学生が代表してわざわざ自宅に届けてくれた時の驚きと感激は一生忘れられないだろう。このような友人が居る限り,機会があれば何度でも英国を訪れたいと思う。また,1年間住んだ家の近くの丘からバースの美しい町並をもう一度眺めてみたいと思う。

京都大学音楽研究会
50周年記念誌より